「原爆ドーム」の全体像と特徴(広島県広島市)

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1.はじめに

©岩本まさき

この記事では、ユネスコの世界文化遺産「原爆ドーム」について紹介します。世界遺産に登録された理由と、原爆ドームとその周辺の見どころについてもあわせて解説していきます。

原爆ドームは平成8(1996)年、同じ広島県内にある厳島神社と共にユネスコの世界文化遺産へ登録された建築物です。
原爆ドーム(当時は広島県物産陳列館、のちに広島県産業奨励館)の建築時期は今から100年ほど前の大正3(1914年)であり、世界文化遺産に登録された他の建築物と比べると新しく感じますが、この建物の価値は歴史的な古さにはありません。

建築から30年ほどが経過した昭和20(1945)年の8月6日、広島への原子爆弾投下によって原爆ドームはほぼ直上より爆弾の熱線と衝撃波、放射線の被害を受け、本体部分がほぼ全壊する被害を受けます。
しかし、衝撃波が抜けやすい構造であったドーム部分を中心に外壁部が残存し、さらにその後広島市が復興していく中でも原子爆弾による被害と世界平和を求めるシンボルとして保存活動が展開されたことで、被爆当時の姿を伝える建築物として現存することとなりました。

世界文化遺産として原爆ドームが登録された理由として、原爆ドームそのものの被爆建築としての価値も評価されていますが、同様に原爆ドームを巡る保存活動、そして世界の恒久平和への願いを訴え続けるシンボルであることも評価されたことで世界遺産への登録がなされました。

2.原爆ドームと世界遺産登録への歴史

ここからはより詳細に原爆ドームと、世界文化遺産登録までの歴史を解説していきます。
現在原爆ドームと呼ばれている建物は、原子爆弾の投下以前は『広島県物産陳列館』や『広島県産業奨励館』などの名前で呼ばれていた建物です。

建物が竣工された大正時代、広島では産業の発展から広島県産製品の販路拡大を急いでおり、その拠点を担う建物として大正4(1915)年に『広島県物産陳列館』として開館しています。

建物中央にドームを伴う設計はチェコ人建築家のヤン・レッツェルの手によるもので、大胆なヨーロッパ風の建築は広島名所の1つとして評判になったといわれます。
蛇足ではありますが、ヤン・レッツェルは本国チェコでほぼ無名、大正期の日本で主に活躍した建築家です。レッツェルの師は神戸の異人館のひとつ『風見鶏の館』などを建築したデ・ラランデであり、師弟は日本の建築界へ大きな影響を及ぼしました。

風見鶏の館
ラランデの建築した風見鶏の館 ©岩本まさき

開館後の産業奨励館では日本で初めてバウムクーヘンが紹介されたほか、第四回全国菓子飴大品評会(現在:全国菓子大博覧会)の会場となるなど、広島県の産業の発展を示す場として賑わいました。

しかし、昭和12(1937)年に日中戦争がはじまると、産業奨励館にも戦争の影が近づいてきます。
産業奨励館は煉瓦造りであることから耐火性を期待され、元々物品の展示されていた展示室に日本木材統制株式会社広島支店など、国や県の機関や統制会社などの戦時行政組織が入居していきます。
産業に関する展示も規模を縮小して、さらに戦時色の濃いものになっていったとされ、第二次世界大戦後期の昭和19(1944)年には産業奨励館としての業務は完全に停止されました。

そして昭和20(1945)年8月6日、広島市へ原子爆弾が投下されます。
原子爆弾リトルボーイは、産業奨励館から直線距離で北西約160m、上空600mの高さで炸裂しました。
産業奨励館は爆風と熱線の直撃によって大破、天井からは火を吹いて全焼しましたが、原子爆弾爆発後にまず訪れる熱線によってドームを覆う銅板が溶けたことからその後の爆風が抜けていくこととなり、建物の外壁の一部やドーム骨組みなどの倒壊を免れました。

一方、原子爆弾投下時には奨励館内で日本木材統制株式会社の社員など約30名が勤務していたと考えられますが、大量放射線被爆や熱線、爆風の影響によって全員が即死したものと考えられています。

原爆ドーム
©岩本まさき

大きな被害を受けた産業奨励館の残骸はその特徴的なドーム骨組みによって、戦後の早い時期から広島市民に「原爆ドーム」と呼ばれていたことがわかっています。

広島市は原子爆弾によって壊滅的な被害を受けましたが、戦後は急速に復興しており、被爆建造物の修復や解体も進められていました。
そうした中にあって、原爆ドームについても保存か解体かの議論がありました。昭和23(1948)年の新聞には「自分のアバタ面を世界に誇示して同情を引こうとする貧乏根性を広島市民はもはや精算しなければいけない」という文が新聞に掲載されています。

しかし、昭和24(1949)年に平和記念都市建設法が公布・施行されると保存運動は活発化していきます。
昭和30(1955)年には丹下健三の設計によって原爆ドームを北の起点とし、原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館を一直線に結ぶ設計がされた広島平和記念公園が完成、原爆ドームは原爆の被害を語り、平和を祈念するシンボルとなっていきました。
一方で1960年代には原爆ドームに風化による崩落の危険性が発生、一部市民からも根強い
取り壊しを求める声があったことで広島市は保存に消極的、取り壊しの可能性も高まっていました。

そうした議論の方向性を変え、現在に至る保存の方針を決定づけたのは広島市内の大下学園祇園高等学校の生徒である、楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。
楮山さんは生後1歳のときに広島市平塚町(現在の中区)の自宅で被爆、15年後の昭和35(1960)年に
「あの、いたいたしい、産業奨れい館だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか(1959年8月6日付、原文ママ)」
などと日記に書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病によって16歳で亡くなられました。

この日記を読み感銘を受けた平和運動家や『広島折鶴の会』によって原爆ドームの保存を求める運動が始まり、昭和41(1966)年に広島市議会によって原爆ドームの永久保存が決議、全国からの募金によって保存工事の工費は賄われました。

そして平成4(1992)年、日本が世界遺産条約に加盟すると原爆ドームを世界遺産に登録しようという声が上がり、広島市から国へ要望書が提出されます。
地域をあげての運動がされ、被爆50年にあたる平成7(1995)年に原爆ドームが国の史跡に指定、翌年の平成8(1996)年12月に原爆ドームの世界文化遺産登録が決定しました。

3.世界遺産に登録された理由

©岩本まさき

この章では、原爆ドームがどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを紹介します。

該当する評価基準

世界遺産の評価基準は10あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。原爆ドームはこれら基準のうち、1つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。

  • 原爆ドームは、かつて人類によって創り出された最大の破壊力の爆裂の後に、半世紀以上にもわたって世界平和の達成をありのままに表してきた強力な象徴である。(価値基準6)


ここからは価値基準の内容について詳細に解説します。

人類が生み出した最大の破壊力と世界平和達成を表する象徴

(該当価値基準6:顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)

先にも少し述べましたが、原爆ドームは建築物としての歴史が浅く、異なる文化同士の交流を強く示す建築物でもないと考えられるため、世界文化遺産に登録されるべき他の要件(価値基準1:人間の創造的才能を表す傑作、価値基準2:ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すもの、価値基準5:あるひとつの文化を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である、など。)を満たしにくいように見えます。

一方で、人類初の原子爆弾による直接的な被害を受け、その被害を今も伝え続けていること、そして世界平和を祈るシンボルとしての原爆ドームの価値はゆるぎないものであり、その点が価値基準6を満たす文化遺産として評価されました。

価値基準6を他の価値基準と共に満たし、複数の基準を含むことで世界遺産に登録されている世界遺産は、国内では「厳島神社」や「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」などが挙げられますが、一方で価値基準6のみを適用して世界遺産に登録されているのは国内では「原爆ドーム」のみ、国外の遺産でも「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」などわずかな資産のみです。

価値基準6のみを適用して世界遺産に登録される資産には、人類が犯した悲惨な出来事を伝える遺産(一般に「負の遺産」とよばれるもの)が多くあります。

しかし、価値基準6のみが適用されて世界遺産登録されている資産の中には「負の遺産」と定義されない資産も含まれており、確固とした定義のもとで価値基準6と負の遺産が紐づけられていないと思われる点には注意が必要です。

4.原爆ドーム周辺の見どころ

ここまで世界遺産原爆ドームの世界遺産への登録理由や建物としての歴史などについて解説してきました。
原爆ドームは広島市の中心部にあるため、アクセスは容易です。ここからは原爆ドームを訪れる際に併せて訪れたいいくつかのスポットについてもご紹介します。

広島平和記念公園

広島平和公園
©岩本まさき

原爆ドームはそのものが世界文化遺産の建物であると同時に、広島平和記念公園を構成する建物のひとつでもあります。

広島平和記念公園は、旧太田川と元安川の中州、中島地域に位置する公園で、原爆ドームからは元安川を挟んで西側に公園大部分があります。
公園の範囲は概ね南北方向に広がっており、公園の北端には原爆投下時に投下目標となったT字型の相生橋で両岸と接続しています。

公園の中央には原爆死没者慰霊碑があり、慰霊碑の北には原爆ドームが見えます。
慰霊碑の南には広島平和記念資料館があり、それらが一直線に並ぶ配置は、原爆ドームのシンボル性を高めるものとなっています。

公園内には広島平和記念資料館や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館といったミュージアムがあるほか、原爆の子の像や動員学徒慰霊塔といった慰霊碑も数多くあります。
公園を訪れた際には原爆死没者慰霊碑に手を合わせていただきたいのはもちろんですが、これらの慰霊碑やミュージアムにも足を運んでみたいところです。

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館
©岩本まさき

広島平和記念公園の中で慰霊碑から見て南の方角には、広島が受けた原子爆弾投下の惨状、核兵器の恐怖や非人道性を伝える広島平和記念資料館があります。

原子爆弾投下後の広島では、学術だけでなく市民の手でも被爆資料の収集や保存が進められており、それらは戦後の早い段階から公民館の一角などで展示されていました。

しかし徐々に収集物の数が膨大となり、また平和記念公園が整備される際に公園全体の設計を行った建築家によって資料館が公園の目玉施設として考えられたことで、現在の場所に開館しました。

展示内容は被爆前の広島の情景を伝えるものから、原子爆弾投下時の被害、原爆投下後の被爆者の苦しみや生活、復興の様子や核兵器の危険性に関するものなどのエリアに分かれています。

充実した展示内容によって国内外から評価が高く、国内では修学旅行生などが数多く訪れるほか、トリップアドバイザーやロンリープラネットなど海外のツアーサイトやガイドブックなどでも日本の観光地として「必見の場所」などの評価を受けています。

5.おわりにー訪れる際のポイントー

©岩本まさき

ここまで世界遺産である原爆ドームの歴史や特徴、そして周辺の見どころについて紹介しました。
原爆ドームは世界遺産に登録されている建築として、国内外から多くの人々が訪れる建築物です。また、広島市の中心に位置しているため、アクセス性にも優れています。

一方で原爆ドームをはじめとする平和記念公園一帯は「慰霊の場」でもあります。

訪れる際には観光地に来たというだけでなく、慰霊の場に来ていることを胸に留めて観覧しましょう。

名称原爆ドーム
住所〒730-0051
広島県広島市中区大手町1-10
営業時間24時間(常時柵外より観覧)
所要時間10~20分程度
関連するサイトhttps://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/163434.html
岩本まさき

岩本まさき

1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職後は、ツアーへの添乗や旅行系のライターとして務め、個人・少人数向けツアーも多数企画しています。
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