応頂山 勝尾寺を参拝する(大阪府箕面市)

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1.はじめにー勝尾寺の概要ー

勝尾寺境内 だるま棚
©岩本まさき

この記事では大阪府北部、箕面市にある「応頂山 勝尾寺(おうちょうさん かつおじ)」について紹介します。
境内の見どころはもちろん、お寺の由来と歴史についても解説します。

勝尾寺の寺域は大阪市から真っすぐ北へ向かった北摂山系の山中にあります。道路状況に左右されるものの、大阪の中心市街地からは車で40分程と、山岳寺院としては非常にアクセスに優れている点が特徴といえます。

箕面エリアは北摂の観光地としても知られており、周囲の箕面大滝や箕面温泉などから足を伸ばす観光客が見られるほか、勝尾寺そのものも「勝運の寺」「ダルマの寺」として信仰を集めています。

特に近年は境内を埋めつくすダルマや、ミストが噴射される幻想的な境内の雰囲気から、フォトスポットとしても知られるようになり、若い女性が参拝される様子も見られるようになっています。

2.由来と歴史

勝尾寺 多宝塔 夜
©岩本まさき

この章では勝尾寺の由来と歴史について、お寺に伝わる話(縁起)を中心に説明していきます。

勝尾寺の由来は今から1300年以上前の奈良時代まで遡ります。和銅元(708)年、摂津の国(現在の兵庫県南東部から大阪府北部地域)で貴族の藤原致房に双子の兄弟が生まれます。兄弟は幼い時から聡明だったといい、9歳の時には四天王寺の僧に従って出家、兄は善仲(ぜんちゅう)、弟は善算(ぜんさん)の法名を与えられました。

二人は普段から勉学に励んだものの、やがて外の世界での修行を望んで寺を飛び出し、修行の地を探します。すると遠くに紫色の雲がたなびく山が見えたため、その山に庵を結び修行を始めました。これが勝尾寺創建の由来とされています。

その後修行を続ける二人の元に光仁天皇の皇子、開成(かいじょう)が現れます。彼もまた紫雲に導かれて勝尾寺にたどり着き、毎日カラスが運んでくる食べ物を食べながら修行をしていました。互いの出会いに運命的なものを感じた3人は共に修行を始めます。修行の中で3人は経典600巻の写経を決意しましたが、写経を始める直前に善仲と善算の兄弟は往生します。

ひとり残された開成は、あらためて写経を行うことを決意します。すると彼のもとへ八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ:八幡神社の神)や諏訪大明神(すわだいみょうじん:諏訪大社などの神)、蔵王権現(ざおうごんげん:修験道の本尊。吉野金峯山寺などに祀られる)などの神々が次々に現れて彼に加護を与えます。開成は寺域に鎮守堂を設けて三柱の神を祀ったほか、境内に咲くシャクナゲの花はこれら神々の出現と共に咲いたとされています。

開成の写経行は都にいる開成の父、光仁天皇にまで伝わり、天皇の支援のもと宝亀6(775)年には、5年の歳月をかけて写経が完了、経典を奉納するお堂も完成し、このお堂は『弥勒寺(みろくじ)』と名付けられました。

そこから3年後の宝亀9(778)年、「弥勒寺の本尊を造るための白檀を寄付したい」という僧が現れます。開成が喜んで白檀を受け取ると、その後別の僧が現れ「白檀を彫って観音像を造りたい」と申し出ます。これを許可すると僧は18人の同伴者と共に観音像を彫刻し、30日かけて彫り終えると、僧は静かに往生、18人の同伴者もひとり残らず姿を消してしまいました。

これは人の行いではなく、観世音菩薩が18人に姿を変えてこの世に現れたものであろうと開成は深く感じ入ったといい、この逸話から観音縁日が毎月18日になったと伝わっています。観音縁日の由来については諸説があり、浅草の浅草寺などにはまた別の由来が伝わっています。

勝尾寺 本堂
©岩本まさき

これらの由来は勝尾寺縁起に見られるもので、事績には不明な点も多く見られます。特に開成の名は正史には見ることができませんが、勝尾寺の裏手には開成の墓が残るほか、北摂地域の山中には開成が関わったとされる寺院も多く残っています。

開成は縁起の上では奈良時代末期に往生したと伝わっていますが、その後歴代の住職も弥勒寺の興隆に努めました。第4代住職の時には念仏道場としても知られるようになり、後には浄土宗の開祖である法然も弥勒寺へ滞在しています。

第6代住職の時には時の清和天皇の病を、天皇の元に赴くことなく快癒させたことから、「王である天皇に勝る力を持つ」とされ、住職は天皇より『勝王寺』の寺号を授けると伝えられています。しかし住職はこれをはばかり、王を尾と変え、現在の『勝尾寺』と書くようにしたと伝わっています。

その後平安時代を通して勝尾寺は栄え、平安時代後期の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には「聖の集う場所」と記されています。源平合戦期には全山を焼亡させましたが、その後鎌倉時代にも勝尾寺は崇敬を集めており、蒙古襲来時にはモンゴルを下すための祈祷が勝尾寺へ依頼された記録も残っています。

室町時代に入ると勝尾寺は寺社勢力として力を強めていたことが伺えるようになり、南北朝時代には足利尊氏から増援の依頼が確認できるほか、室町幕府からは勝尾寺山内での殺生や伐採などを禁じる禁制が度々発されています。

西国から京へ至る途上にある勝尾寺の山域は、戦国時代には様々な武士勢力から注目されており、室町幕府管領として権勢を誇った細川家などからの書状が多く残されています。それら書状からは戦国時代前期の明応4(1495)年に再び勝尾寺が焼亡したことも伺えます。

現在残る本堂などの建物は、その後慶長年間に豊臣秀頼によって再建されたものです。

3.境内のみどころ

この章では勝尾寺の見どころについていくつかご紹介します。

①お清め橋と霧

お清め橋

山門をくぐり抜けると、霧が立ち込める橋を渡って境内へ進みます。

お清めの霧で身体を清め、厄を落として仏様にお詣りすることができるほか、霧と橋は日没以降ライトアップされ、幻想的な雰囲気を楽しむことができます。

②本堂

本堂
©岩本まさき

現在の勝尾寺本堂は、慶長年間に豊臣秀頼によって再建されたものです。秀吉の死後、秀頼は父の追善供養として、畿内地域を中心に莫大な数の寺社の修復・造営を行っており、勝尾寺の本堂と山門の造営事業もそのひとつでした。

長く続いた戦乱の時代の中で、勝尾寺を含め多くの寺社は荒廃しており、豊臣家の修復・造営事業は多くの寺社を再興させました。四天王寺五重塔や、北野天満宮、東寺金堂などは勝尾寺本堂と同時期に造営され、現在まで残っているものです。

③勝ちダルマ

勝ちダルマ並ぶ境内
©岩本まさき

勝尾寺の境内にはダルマの奉納棚のほか、至る所で小さなダルマが見られます。

勝尾寺はかつて『勝王寺』の寺号が与えられるなど、「勝運」の寺として知られ、ダルマは「自分の心に打ち勝ち、願いを叶える」約束として奉納されます。

本堂前の授与所で勝ちダルマをお授け頂けるほか、小さなダルマの形が可愛らしい『六十四卦ダルマみくじ』もお受けすることができます。

達磨みくじ 崖
©岩本まさき

このおみくじは古代中国から伝わった「易(えき)」の考えに則った内容となっており、他では見られない内容のおみくじとなっています。
ダルマみくじは小さなダルマがついており、このダルマは家に持ち帰ることができるほか、境内に納めることも可能です。

勝尾寺の境内には至る所にこの小さなダルマが見られます。年末にはすべてのダルマが回収、お焚き上げされますが、その間境内にどれだけのダルマがあるのかはお寺側も把握できないようです。

4.おわりにー参拝のポイントー

達磨レゴ
©岩本まさき

ここまで応頂山勝尾寺について説明しました。

長い歴史があるお寺であり、西国三十三所や法然上人二十五霊場にも数えられる巡礼の地でもありますが、近年はインスタグラムでタグづけされるなど、多彩な見どころのあるお寺です。

アクセスが良く、さらに近年人気が高まっていることもあり、正月シーズンの昼間などには麓から駐車場までの山道が何kmにもわたって渋滞することもあります。
一方で朝夕は駐車場・境内が混雑することは多くありません。

特に土曜日は朝8:00から18:00まで参拝時間を長めに取られているため、土曜日の早朝や日没後に訪れて、人の少ない境内をゆったりと歩くのがおススメです。

名称応頂山 勝尾寺(おうちょうざん かつおじ)
住所〒562-8508
大阪府箕面市粟生間谷2914-1
電話番号072-721-7010
参拝時間平日:8:00~17:00
土曜日:8:00~18:00
日曜・祝日:8:00~17:00
参拝の所要時間おおよそ40分
主なアクセス方法阪急箕面駅・千里中央駅からタクシーで20分
阪急箕面駅からシャトルバス運行あり(土日祝)
入山料大人:500円
関連サイトhttps://katsuo-ji-temple.or.jp/
岩本まさき

岩本まさき

1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職後は、ツアーへの添乗や旅行系のライターとして務め、個人・少人数向けツアーも多数企画しています。
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