「姫路城」の全体像と構成資産の特徴(兵庫県姫路市)

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1. はじめにー姫路城の魅力や構成資産ー

姫路城桜
©姫路市

この記事では、世界文化遺産「姫路城」について紹介します。世界遺産に認定された理由だけでなく、姫路城内の魅力あるポイントについても解説します。

姫路城は1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」や、「屋久島」、「白神山地」と共に、日本で最初に世界遺産へ登録された建築物です。日本に現存する城の中でも特に美しい城といわれており、白漆喰で塗り固められた姿から別名を「白鷺城」として親しまれています。

世界文化遺産には、姫路城の中堀に囲まれた中曲輪(なかぐるわ)と呼ばれる範囲と、中曲輪の内にある内曲輪(うちぐるわ)と呼ばれる範囲に建っている天守など82棟の建物が世界遺産に指定されています。

2. 姫路城の歴史

姫路城 ライトアップ
©姫路市

姫路城の歴史は元弘3(1333)年、播磨国(現在の兵庫県南西部)の西部に勢力を広げていた赤松則村が現在の姫路城がある場所に砦を築いたところから始まります。

赤松則村は、鎌倉幕府倒幕運動や南北朝の動乱期に活躍した武将で、室町幕府成立の立役者となった人物の一人です。
室町幕府からの信頼も厚く、播磨守護職に任じられた後は播磨地域一円に勢力を拡大しています。その後、興国7・貞和2(1346)年には則村の次男である赤松貞範(あかまつさだのり)によって城としての整備が進められ、以降は赤松氏の重臣である小寺氏によって姫路城は治められます。
室町時代中期には一時姫路城の統治は赤松家から但馬(現在の兵庫県北部)などを治めた山名家に移ったこともありましたが、応仁の乱後に赤松家が復権したことで、姫路城は再び小寺氏とその家臣の黒田氏が治める城となっています。

天正8(1580)年には黒田氏の当主であり、後に羽柴秀吉の軍師として活躍する黒田官兵衛によって、姫路城は中国地方攻略の拠点として羽柴秀吉に献上されています。

この時に秀吉によって3層の旧天守閣が築かれるなど、現在に繋がる姫路城の整備が進められることとなりました。以降、姫路城は西国統治の重要拠点となり、池田輝政、本多忠政ら歴代の城主達によって城の整備・拡張が進められています。

大天守最上階 刑部神社
©姫路市

現在の姫路城の全容が整うのは、関ケ原の戦いや大阪の陣が終結、戦乱が落ち着いた元和3(1617)年のことでした。陸路海路共に交通の要衝である姫路を江戸幕府は重視しており、姫路城には本多氏や池田氏、榊原氏など、幕府から信頼の厚い大名が藩主として入り統治を行なっていきました。


明治時代に入ると姫路城は封建時代の遺物として、一時廃城の危機を迎えることとなります。
明治政府により姫路城の天守は競売にかけられ、城下の商人が瓦を転売することを目的に23円50銭(当時の初任給が4~5円)で落札された話も伝わっています。

姫路城の瓦は一般住宅に使うには大きく重すぎることから、結局姫路城の権利は放棄されることとなりましたが、さらにその後には姫路城に陸軍歩兵第十連隊が設置されることとなり、城の建築物は再び取り壊しの危機を迎えます。

これに対して陸軍内から反対の声が上がり、大佐であった中村重遠が陸軍卿(後に陸軍大臣と改称)であった山形有朋へ姫路城保存のための意見書を提出しました。この意見書により明治12(1879)年に姫路城の保存が決定しています。中村大佐は名古屋城に対しても姫路城と共に保存の意見書を提出した人物として知られており、姫路城内には中村大佐の顕彰碑が残されています。

姫路城空撮
©姫路市

以降は市民の間でも姫路城の保存修理を求める運動が徐々に高まりを見せ、明治41(1908)年には白鷺城保存期成同盟が結成され、明治の大修理が行なわれることとなります。
その後大正元(1912)年には陸軍が使用していないエリアが姫山公園として一般公開されることとなり、昭和6(1931)年には当時の国宝に姫路城が指定されるなど、徐々に史跡としての整備が行なわれていきました。

しかし、戦争の足音は姫路城にも近づいてきていました。
当時から姫路は周辺地域の産業の中心地であり、軍需産業も栄えていたほか、陸軍の部隊も置かれていたことから、戦時には姫路が敵の攻撃対象となることが予想されていました。

太平洋戦争が開戦する前年の昭和15(1940)年、姫路で防空訓練が行われた際には、白くそびえる姫路城は敵機の恰好の目標になるとして問題視されることとなります。
これを受けて姫路市側からは、白い外壁をペンキで塗ることなどが文部省に提案されるも許可は下りず、文部省が設計した偽装網によって天守ほか姫路城の南側を覆うこととなりました。

昭和17(1942)年5月までに大天守には黒い偽装網が被せられ、さらに翌昭和18(1943)年には天守以外の建物の目地に灰汁による古色塗装が施されるなど、姫路城の「白さ」を隠すための偽装が徹底して行われました。
昭和9(1934)年からは姫路城で『昭和の大修理』も行われていましたが、その工事も中断を余儀なくされました。

姫路城夕暮れ
©姫路市

そして昭和15(1945)年、姫路は7月3日の姫路大空襲を含む2回の空襲を受けることとなります。姫路城は天守閣に落ちた焼夷弾が不発となるなど幸運も重なり焼失を免れましたが、城下では総戸数の40%以上が失われ、多くの人的被害を出しました。

終戦後、焼け野原から再出発する姫路の人々は、建物の無くなった街並みの中に屹立する姫路城の姿に励まされたという話も伝わっています。
姫路城を覆っていた偽装網は終戦の年の9月に外されたほか、昭和の大修理も再開されることとなります。
昭和24(1949)年には姫路市長らによって「白鷺城修築期成同盟」が結成、市民の署名とともに「姫路城補修、保護施設費国庫補助請願」を政府に提出されています。
その後修理予算が通され、天主の解体を含む大規模な修理が行われました。

その後平成21(2009)年からは平成の大修理が行なわれました。この修理では耐震補強のほかに屋根瓦の葺き替えや漆喰の塗り直しが行われており、修復後には天守の白さが話題になりました。

3. 世界遺産に登録された理由

姫路城天守全景
©姫路市

この章では、姫路城がどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを紹介します。

該当する評価基準

世界遺産の評価基準は10個あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。姫路城はこれらの基準のうち、下記2つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。

  • 白漆喰の壁や、天守閣群と幾重にも重なる屋根との絶妙な配置関係といった外観の美しさと、効果的な防御機能を合わせ持つ姫路城は木造建築の最高傑作である。(価値基準1)
  • 歴史上の有意義な時代を示す優れた建造物や建築物群、技術の集積または景観の例(価値基準4)

ここからはそれぞれの価値基準を満たした理由について説明していきます。

外観の美しさと効果的な防御機能を合わせ持つ木造建築

天主を見上げる
©姫路市

(該当価値基準1:人類の創造的な才能が生んだ傑作)
姫路城が世界遺産に登録された理由として、特徴的な白壁や、林立する天守が織りなす美しさと、門や堀による高い防御機能を両立する木造建築であることがあげられます。

姫路城の象徴ともいえる白さは、日本古来の壁材料である漆喰によるものです。姫路城の漆喰は下地を含めて幾層にも重ね塗りがなされており、美しさと堅牢さを両立し、さらには高い防火性能も持っています。
また、姫路城内では今も築城当時の防御拠点としての機能を数多く見ることができます。
三重構造の大手門や、三国濠(みくにぼり)や水一門などが作り出す迷路のような構造など、攻城戦時に敵を食い止める様々な工夫の数々を今もこの目で見ることができます。

この他にも幾何学模様が美しく、有事には鉄砲や火縄銃のを構えることができる狭間(さま)と呼ばれる穴の開いた壁や、天守の石落とし構造など、姫路城では外観の美しさと防御拠点としての機能を併せ持つ様々な建築を見ることができます。

木造の城郭建築の特徴を完全な形で保存している

姫路城内
©姫路市

(該当価値基準4:歴史上の有意義な時代を示す優れた建造物や建築物群、技術の集積または景観の例)
現在の姫路城は江戸時代初期に築城されたものです。戦国時代が終わり、幕藩体制へと時代が移っていくこの時期、日本の城郭建築技術は最盛期を迎えていました。

そびえ立つ天守群を中心に、櫓や門、土塀などの建造物や、石垣や堀といった土木建築物は、当時の高い技術力によって造られ、さらにそれらの多くが現代まで良好な状態で保存されています。

姫路城は修復を行う際に修復前と同じ材質の物や技術を使うことでオリジナルの状態を保つように管理がされてきた歴史がある点も、世界遺産に登録された大きな理由のひとつです。

4. 姫路城の見どころ

世界遺産の姫路城は、中堀に囲まれた中曲輪(図中黄緑色の範囲)と、その中にある内堀で囲まれた内曲輪と呼ばれる範囲(図中緑色の範囲)に建つ82棟の建物から構成されています。
ここでは姫路城の見どころとして、城内のいくつかのスポットを紹介します。現在に残る姫路城の建物は江戸時代初期に池田氏によって整備されたものです。

姫路城は敷地が広大なため、スムーズに見学しても1時間半程度の見学時間が必要です。
見学前には入場料(大人:1,000円)を用意しておき、訪問前に気になるスポットの位置関係を把握したり、待ち時間が発生しにくい時間帯に訪問するなどの工夫をしておくと良いでしょう。

①大天守

大天守
©姫路市

姫路城の一番の見どころとしては、やはり大天守があげられます。
城山(45.6m)の頂上に天守台の上に乗る形で築城されているため、屋根上の鯱(しゃちほこ)までの高さは海抜91.9mの高さがあります。

大天守内からは城内と姫路の市街地を一望することができるほか、優美な外観からは想像できない、防御拠点としての無骨な姿を楽しむことができます。最上階には長壁神社が祀られており、姫路城の守護神といわれているほか、宮本武蔵と怪異のエピソードなども伝わっています。

②小天守

小天守
©姫路市

姫路城本丸天守台の上には、大天守以外に西小天守、東小天守、乾小天守の3つの小天守が大天守に寄りそうように建てられています。
こうしたいくつかの天守が渡り廊下で繋がれた構造を「連立式天守」といい、姫路城は連立式天守の代表例のひとつといえます。


3つの小天守にはデザイン面などで個性があり、なかでも乾小天守は花頭窓(かとうまど)と呼ばれる、寺院や茶室建築で用いられることが多い窓が取り入れられるなど、全体的に豊かな装飾と優美な外観が特徴的です。

③菱の門

菱の門
©姫路市

姫路城の入城口を入ってすぐ目の前に現れる荘厳な門で、桃山時代の豪華絢爛な建築様式を感じることができるスポットです。

門には花頭窓、漆喰塗の出格子窓、黒漆と飾り金具つきの格子窓の3つの意匠の窓が設けられ、優美でありながらも敵への応戦を意識した設計になっています。菱の門の名称は、鏡柱上部に木製の花菱模様が飾られていることに由来しています。

④三国濠

三国堀
©姫路市

菱の門から入ってすぐのところにある四角い堀です。
この堀の左右で天守閣への道が分岐しており、攻めてきた敵をかく乱することができるほか、味方の軍勢を隠しておく場所も用意されており、菱の門を突破した敵に不意打ちを行なうことができる構造となっています。

堀の名前は姫路城を現在の形に改修した池田輝政が、播磨、淡路、備前(現在の岡山県東南部)の三か国を治める大名であったからといわれています。

⑤将軍坂

将軍坂
©姫路市

天守への登城ルートの途中にある長い坂道で、坂の途中からは正面に天守が見られる絶好のスポットです。

名前の由来はテレビドラマ「暴れん坊将軍」に由来しており、ドラマ内で度々登場したことから将軍坂と呼ばれるようになりました。暴れん坊将軍以外にも映画やドラマの撮影に度々用いられており、姫路城を象徴する場所の一つとなっています。
坂の右側には三角形や四角形の幾何学模様の穴があいていますが、これらは「狭間」と呼ばれるもので、銃や弓を敵に向って射かけるためのものです。

⑥お菊井戸

お菊井戸
©姫路市

姫路城の本丸下「上山里(かみやまさと)」と呼ばれる一角にある古い井戸で、怪談「播州皿屋敷」の伝承地となった場所です。室町時代中期に城に勤めていたお菊と呼ばれる女性の逸話で、10枚ある家宝の皿の1枚を紛失した濡れ衣で殺害され、その遺体が投げ込まれた井戸からは夜な夜な悲しげな女性の声で皿を数える声が聞こえるようになったと伝わっています。


城内の配置から考えると、この井戸は城主の居住する御殿と繋がっているとも考えられ、いざという時の脱出用の抜け穴であるという説があり、皿屋敷の逸話は人をこの井戸に近づけないために造られたともいわれています。

4.おわりに

大手門通りと姫路城
©姫路市

ここまで世界遺産である姫路城の歴史や特徴、見どころについて紹介しました。
白く輝く大天守が最大の見どころですが、訪問する際には、建築されて以降どのように保存・修復がされてきたのか、世界遺産に登録された理由などを理解しておくとさらに楽しむことができます。

また、姫路城には長壁姫や播州皿屋敷といった幾つかの逸話が伝えられており、そうしたエピソードの中にはソーシャルゲームなどで取り扱われているものもあるため、聖地巡礼的な楽しみ方もおすすめです。

名称姫路城
住所〒670-0012
姫路市本町68番地
電話番号079-285-1146
開城時間9:00~17:00
主なアクセス方法姫路駅から神姫バス運行あり
姫路駅から徒歩20分
入城料金大人:1,000円
関連サイトhttps://www.city.himeji.lg.jp/castle/index.html
岩本まさき

岩本まさき

1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職後は、ツアーへの添乗や旅行系のライターとして務め、個人・少人数向けツアーも多数企画しています。
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