目次
1.はじめに
この記事では、世界文化遺産「平泉」について紹介します。平泉の歴史、世界遺産に認定された理由、構成資産ごとの見どころなどを説明します。
平泉の世界遺産は、正確な名称は「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」と言います。2011年にユネスコの世界文化遺産に登録され、国内では「小笠原諸島」に続く16例目の世界遺産です。
平泉の世界遺産は5つの資産から構成されており、金色堂で有名な中尊寺をはじめとした寺院と日本庭園が評価された世界遺産です。
また、平泉の構成資産及び関連する遺跡を周遊する出発点となる「平泉世界遺産ガイダンスセンター」や、平泉の文化遺産の魅力をわかりやすく紹介するガイダンス施設である「平泉文化遺産センター」など周辺施設も整備されています。
本記事のキーワード「浄土信仰」
平泉の世界遺産を理解する上では浄土信仰が重要となります。
浄土信仰とは、仏や菩薩が住む浄土世界に憧れ、死後その世界に生まれ変わろうとする考え方のことです。
当初はインドの経典の中に描かれた考え方で、仏のひとつである「阿弥陀如来(あみだにょらい)」の名前を心に留めることで、阿弥陀如来の住む美しい極楽浄土に生まれ変わることができるというものでした。
この経典が中国に伝わると、釈迦の死後に年月が経ち、仏教の正しい教えが失われて世が荒れるという思想「末法思想」と結びつくこととなり、阿弥陀仏の名を唱えることで、死後に極楽に生まれ変わる方法として「念仏」が生み出されました。
日本でも1052年からは末法の世になるという考え方があり、同時期には戦乱や災害が頻発したことから、日本では特に終末論的な受け取り方がされました。末法の世では現世で人々の救済はされないという考えもあったことから、死後に極楽浄土へ生まれ変わろうとする浄土信仰は急速に人々の間に広まっていきました。
平安時代後期には、修験道の聖地でもあった紀伊半島熊野地域が浄土とみなされ、後白河天皇をはじめ歴代の皇族が参詣した記録が残されているほか、鎌倉時代には念仏が流行したことからも浄土信仰の人々への広がりが伺えます。
平泉における浄土信仰と浄土庭園
世界遺産・平泉の構成資産は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての貴族階級に浄土信仰が広まっていた時期のものです。特徴としては庭園によって極楽浄土を表す「浄土式庭園」が見られます。
浄土信仰においては、死後に極楽浄土へ生まれ変わる方法として、阿弥陀如来を信じることが求められました。信仰のための修行として、写経や読経のほか、阿弥陀如来と極楽浄土を思い浮かべる「観想(かんそう)」が行われました。
しかし、行ったことのない極楽浄土を想像するのは困難であるため、仏教の絵図や経典を元に極楽浄土の景色を庭園で再現することが流行しました。
このような庭園は「浄土式庭園」と呼ばれ、平泉の世界遺産構成資産である「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」は平泉を支配した奥州藤原氏によって浄土式庭園が造られました。
平泉のほかにも同時期には日本各地で浄土式庭園が造られ、代表的なものとしては京都宇治の「平等院庭園」が挙げられるほか、広島の厳島神社も浄土の景色を意識したと考えられています。
また、平泉では浄土式庭園の他にも、中尊寺の浄土教建築なども見ることができ、奥州藤原氏の浄土信仰への帰依と、仏教によって東北一帯を収めようとする思いを感じることができます。
2.平泉の歴史
ここでは平泉が世界遺産に登録された背景である地域の歴史について紹介します。特に平泉を繫栄させた奥州藤原氏を中心に説明していきます。
平泉の歴史は11世紀末、奥州藤原氏初代当主である藤原清衡(ふじわらのきよひら)が本拠地を平泉に置いたことから始まります。
清衡の一族は宮城県南部の豪族だったと考えられていますが、相次ぐ他の豪族との戦いの中で、清衡は父や妻子を失いながらも、勢力を伸ばし、東北一帯を治めるようになりました。
勢力圏全体のちょうど真ん中にあたる平泉に本拠地を置いた清衡は、平泉を中心に仏教による国造りを目指しました。中尊寺を建立した際に奉納された、争いのない国にするという誓いである「中尊寺建立供養願文(ちゅうそんじこんりゅうくようがんもん)」が残されているほか、戦乱による犠牲者の供養などを目的とした傘塔婆(かさとうば)が街道沿いに設けられました。清衡の影響力は東北地方の広い範囲に及びました。
清衡の死後は二代目当主として基衡(もとひら)が後を継ぎます。基衡は清衡が考えた仏教を中心とした平泉の街づくりをさらに発展させました。領内で産出する金や、交易によって栄えていましたが、基衡はその財力を活かし毛越寺を建立したほか、基衡の妻によって観自在王院が建立されるなど、豊かな平泉文化を開花させました。
基衡の後は三代目として秀衡(ひでひら)が後を継ぎ、この秀衡の代に奥州藤原氏と平泉は最盛期を迎えます。秀衡は朝廷から「鎮守府将軍」や「陸奥守」といった官職への任命を受けており、これらは東北地方全体を治める職に当たります。
また、宇治の平等院鳳凰堂をモデルに、一回り大きな無量光院を建立したほか、柳之御所とよばれた居館周辺を含めた広い範囲の整備も行うなど、平泉の都市を完成させました。
名実共に東北の支配者となった奥州藤原氏、そしてその本拠地として栄えた平泉ですが、その後の栄華は長く続きませんでした。
平泉は源平合戦で活躍した源義経が落ち延びてきた土地としても有名です。鎌倉幕府との関係が悪化した際、義経は以前から親交のあった奥州藤原氏を頼って秀衡のもとを訪れました。しかし、1187年に秀衡が亡くなると、後を継いだ四代泰衡(やすひら)には幕府から「義経を捕縛せよ」との圧力にかかり、1188年4月に義経を攻撃、自害に追い込みます。
義経への攻撃は奥州藤原氏の存続を目指したことによるものでしたが、「無断で義経を討伐した」ことを口実とした幕府は秀衡討伐を決定、幕府との合戦に敗れた泰衡は平泉に火を放ち秋田へ逃れましたが、最後は家来によって殺されてしまいます。
泰衡の死、すなわち奥州藤原氏の滅亡によって、平泉は急速に衰退していきます。泰衡によって火を放たれたことで邸宅群は灰となり、以降は鎌倉幕府などからの保護を受けたものの、残された毛越寺の建物の一部が鎌倉時代に焼失、観自在王院や無量光院も戦国時代の兵火によって焼失するなど度々の火災の被害によって被害を受けています。
安土桃山時代には建物がほとんど残されていないほど荒廃していたと推定され、江戸時代に平泉を訪れた松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」という句からも当時の寂しげな雰囲気が伝わってきます。
しかし、そうした状況下でも、地元の人達や統治者の努力によって平泉では遺跡が良好に保たれ続けてきました。江戸時代には仙台藩によって平泉の遺跡の保護が進められ、礎石の持ち出し禁止が定められたほか、堂の再建も行われました。
また、浄土思想と関わりを持つ各種の舞が今も残されている点は、平泉の遺産や浄土信仰が過去の奥州藤原氏の繁栄の痕跡としてではなく、現在にも継承されていることを感じさせてくれます。
3.世界遺産に登録された理由
この章では、平泉がどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを紹介します。
該当する評価基準
世界遺産の評価基準は10個あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。平泉はこれらの基準のうち、下記2つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。
- 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流またはある文化圏内での価値観の交流を表すものである。(価値基準2)
- 顕著な普遍的意義を有する出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある。(価値基準6)
ここからはそれぞれの価値基準を満たした理由について説明していきます。
現世における仏国土がさまざまな形で表現された寺院や浄土庭園群
(該当価値基準2:ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すもの)
平泉が世界遺産に登録された理由は、東アジア地域から伝わった仏教の思想をルーツとして、現世における仏国土(浄土)がさまざまな形で表現された寺院や庭園があり、それらが国内の他の建築に与えた影響が評価された点があげられます。
平泉の庭園及び寺院は、仏教が中国・朝鮮半島を経由して日本に伝わり、さらに日本古来の自然崇拝思想と融合する中で独特の発展を遂げ、それが作庭技術や仏堂建築に反映されることで生み出されたものです。
死後に極楽浄土に生まれ変わるという浄土思想は、特に平安時代末期に流行しました。
平泉の寺院や浄土庭園群は、現世における浄土を表現した独特の意匠・設計に基づいて設計されており、それらが平泉の狭い範囲に視覚的に結びつきながら存在する様子は後に造られる鎌倉などの寺院や庭園に大きな影響を与えました。
現在も継承される浄土思想の宗教儀礼や民俗芸能
(該当価値基準6:顕著な普遍的価値を有する出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連があるもの)
平泉の寺院・庭園の造営に重要な意義を持った浄土思想は、現在平泉で行われている宗教儀礼や民俗芸能などに継承されています。
中尊寺の境内では、浄土思想と直接的な関わりを持つ民俗芸能である「川西大念仏剣舞(かわにしだいねんぶつけんばい)」が今なお上演されているほか、毛越寺の常行堂では、毎年正月20日に常行三昧の修法が行われた後、参集した人々の無病息災・長寿を祈願して「延年の舞」が奉納されています。
これらの浄土思想を反映した無形の諸要素が今なお伝えられていることが平泉が世界文化遺産に登録される理由の一つとなりました。
4.平泉の構成資産
平泉の建築・庭園及び考古学的遺跡群は、構成資産の全てが岩手県南部の平泉町に位置しています。平泉町は古来より交通の要衝として栄えてきた所で、現在においても東北自動車道や国道4号線、東北新幹線といった東北地方の大動脈ともいえる交通インフラが間近に整備されており、アクセス面でも優れています。
構成資産は同じ町内に集っているものの、それぞれの観覧時間を含めると、丸一日の滞在を見込んでおくとよいでしょう。町内では平泉巡回バス「るんるん」が運行されており、1回の乗車料金は大人200円、一日フリー乗車券は550円です。一ノ関駅や毛越寺門前直売店などで乗車券の販売がされています。
①中尊寺
平泉の世界遺産の中でも特に有名な寺院が中尊寺です。平安時代中期に創建されて以降、奥州藤原氏の初代当主である藤原清衡によって境内の整備がすすめられた歴史を持っています。清衡は相次ぐ戦乱の犠牲者を追悼することを目的として境内を整備したほか、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指しました。
境内には多くの仏像や経典など奥州藤原氏の繁栄がしのばれる多くの文化財が残されており、中でも金色堂は平安時代の建築と工芸、美術技術の粋を集めた浄土教建築の代表例として知られています。
②毛越寺(もうつうじ)
毛越寺は、平安時代中期に創建後、奥州藤原氏、二代当主基衡と三代当主秀衡により再興された寺院です。当時は豪華な仏教建築が立ち並び、鎌倉時代の歴史書には「寺院の立派であること国内に並ぶもの無し」と記されるほどでしたが、戦火の中で全ての建物が消滅しています。
現在見られる建物は明治時代以降に再建されたものですが、境内で全面的な発掘調査が行われた結果、かつての建物の基礎が美しく残されています。修復された浄土庭園は「浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証している」として世界遺産委員会にも評価されています。
③観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
観自在王院跡は奥州藤原氏二代当主基衡の妻が造営した寺院の遺跡です。寺院は鎌倉時代以降に荒廃し、水田となっていましたが、遺跡発掘調査の成果に基づいて伽藍遺構と庭園の修復・整備が行われ、現在の姿が整えられました。
大小二棟の阿弥陀堂跡の前面には、池を中心とした極楽浄土を表現した庭園をみることができます。観自在王院跡は毛越寺・無量光院跡とともに「現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現として造営された」資産であると世界遺産委員会に評価されています。
④無量光院跡(むりょうこういんあと)
無量光院跡は、奥州藤原氏三代当主秀衡によって造営された寺院の遺跡です。
かつて存在していた建物は宇治にある平等院鳳凰堂を模して、それを上回る規模で煌びやかなものであったとされていますが、後の時代に建物は消滅、池は水田化していました。
かつては、本堂の背後にある金鶏山に夕陽が沈んでいく様子を見られたことが判明しており、当時の人たちは西の方角にあるとされる極楽浄土をこの場所で感じていたことでしょう。
発掘調査により、庭園の規模や配置が明らかとなっており、中島と池の再現が進められました。
⑤金鶏山
金鶏山は、奥州藤原氏がその山頂に経塚(経典を地中に埋めた塚)を造った信仰の山です。平泉を守るために雌雄二羽の黄金の鶏が埋められたという逸話が名前の由来となっているほか、奥州藤原氏三代当主秀衡が一晩で築かせたとの伝説が残されています。
周囲に毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡などが築かれていることから、金鶏山が平泉の都市計画の基準となったとも言われています。
4.おわりに
ここまで世界遺産である平泉の歴史や特徴、見どころについて紹介しました。黄金に輝く金色堂が最大の見どころとして知られていますが、実際に旅行する際は、平泉の構成資産に多く見られる浄土庭園の数々と、それら庭園に見られる浄土信仰についても知っておくとより楽しむことができます。
ブログ内では浄土庭園を含む様々な庭園の歴史と種類について解説している記事もありますので、そちらもあわせて参照してみてください。
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