目次
1.はじめに
この記事では、世界文化遺産「嚴島神社」について紹介します。世界遺産に認定された理由と、厳島神社以外の宮島の魅力についても解説します。
厳島神社は平成8年(1996年)に同じ広島県にある原爆ドームと並んでユネスコの世界文化遺産に登録された遺産です。歴史的・文化的な価値だけでなく、日本の宗教観や精神性が表されている点も評価された遺産で、日本国内の世界遺産としては白川郷・五箇山の合掌造り集落に次いで7番目に登録されました。
世界遺産には厳島神社の17の社殿群と、その周囲の厳島の森林、そして前面の海面から構成されています。
もともと厳島の名前は「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」が由来とされ、神社の背後にある弥山(みせん)を中心に島そのものが信仰されてきた歴史があります。それら歴史と共に、島全体が作り出す文化的景観が高く評価されたことで世界文化遺産へ登録されました。
2.厳島神社の歴史
厳島は古代から島そのものが神として信仰されてきたと考えられている島です。この場所に神社が造られたのは推古天皇元(593)年のこととされ、以後は海の守護者として瀬戸内海を渡る交易関係者や、旅人からの信仰を集めてきました。
平安時代初期には唐での修行を終えた空海が厳島で修行を行なったとされ、平安時代末期には平清盛をはじめ、平家一門からの崇敬を受けています。現在の広大な社殿の原型はこの時代に築かれたもので、このような背景から、厳島神社には『平家納経』など平家の栄華を伝える文化財が多く伝わっているほか、島には大聖院などの寺院も多く所在しています。
厳島神社に限らず、明治時代まで日本では仏教と神道は習合、混ざりあって信仰されてきた歴史がありますが、厳島神社も経が納められ、海に浮かぶ社殿が造られているなど、特に平安時代に流行した浄土信仰の形を今に伝えています。
その後、戦国時代には社殿の一部が焼失するなどの被害を受けましたが、厳島の戦いで勝利した毛利元就が厳島神社を信仰していたことから、社殿の修復が行われるなどの庇護を受けました。
厳島とその周辺を舞台に戦闘が行なわれた厳島の戦いは「日本三大奇襲」のひとつにも数えられており、この戦いで5倍の兵力と伝わる敵を討ったことで毛利元就はその名を高めました。
この劇的な勝利は厳島神社のご利益と考えられたことから、以降厳島神社は「必勝祈願」の神社としても崇敬を集めるようになります。
江戸時代には、民衆による厳島詣が盛んになりましたが、明治時代初期に神社から仏教色をなくす廃仏毀釈運動で、一時は社殿の朱塗りが剥がされ、屋根に神社風の飾りが取りつけられた歴史も持っています。
このような複雑な歴史を辿りながら、厳島神社は海の守護者として長い歴史を通じて信仰されてきました。
3.世界遺産に登録された理由
この章では、厳島神社がどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを紹介します。
該当する評価基準
世界遺産の評価基準は10あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。厳島神社はこれら基準のうち、下記4つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。
- 海に浮かぶ特徴的な神殿造りの社殿と、背景の山容が一体となった他に類のない景観が見られる(価値基準1)
- 日本の自然崇拝、精神文化を理解する上で重要な資産である(価値基準2)
- 平安時代の創建当初の面影をよく残しており、古い形態の社殿群を知る上で重要な見本である(価値基準4)
- 日本の風土に根ざした宗教である神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化資産として、日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠となるものである(価値基準6)
ここからはそれぞれの価値基準を満たした理由について説明していきます。
特徴的な社殿と景観
(該当価値基準1:人類の創造的な才能が生んだ傑作)
厳島神社が世界遺産に登録された理由に、目をひく特徴的な社殿群と、それらが背景の弥山と一体となった景観が人類の創造的才能を表現しているとされた点にあります。
海に浮かぶ朱塗りの大鳥居と、寝殿造りの社殿群、その背景に弥山の緑が広がる風景は厳島神社のみで見ることができる風景です。島そのものが聖地として信仰され、神社もあった厳島ですが、現在のような海に浮かぶ大規模な寝殿造りの社殿は平安時代末期、隆盛を極めた平清盛とその一門によって築かれたものです。
厳島そのものが信仰対象とされていたため、島の大地ではなく海と浜に社殿が建てられたと言われており、社殿には大潮や嵐から建物を守るための様々な工夫がされています。一例としては、社殿全体が浮くようになっていることや、床板に隙間を空けることで波の衝撃を分散する設計となっていることが挙げられます。
日本の自然崇拝、精神文化を理解できる資産
(該当価値基準2:建築や芸術、都市の構成や景観の発展において、ある時代や地域における人類の文化的交流の形跡を示すもの)
厳島神社は先述の通り、厳島(弥山)そのものをご神体として崇拝する、古来からの自然信仰、山岳信仰が起源となっている神社です。
自然を崇拝して山や木、大石などをご神体として祀り、遥拝所(ようはいしょ)をその麓などに設置するのは、神社が創設される歴史としてよく見られるものですが、なかでも厳島神社はご神体である弥山を傷つけないために海上に建築されるなど、周囲の環境への配慮が見られます。
また、ご神体である弥山には空海の修行にまつわる様々な伝説が残されるなど、古くから密教の修行の場でもありました。このような点が日本人の精神文化を理解する上で重要な資産であると位置づけられています。
創建当初の面影を残す社殿
(該当価値基準4:歴史上の有意義な時代を示す優れた建造物や建築物群、景観の例)
日本国内に古い神社は多くありますが、なかでも厳島神社は創建当初の建造物の面影を現在に伝えており、さらに建築様式も平安時代末期に貴族の邸宅に用いられた寝殿造りで建てられているのは注目すべき点です。
厳島神社は創建以来幾度も天災や戦災に見舞われてきた歴史があり、大鳥居の倒壊や社殿の炎上、土石流や台風による高潮などを経験しています。しかし、その度に創建当初の姿に復元するよう再建がなされてきました。
寝殿造りの建物が今に伝わり、見ることができるのは厳島神社の大きな特徴といえます。
神道と仏教との混淆(こんこう)と分離の歴史
(該当価値基準6:世界的に著名な事件・伝統・思想・信仰・芸術作品・文学作品と密接に関係するもの)
飛鳥時代に日本に仏教が伝来して以来、神道は仏教からの影響を受け、明治時代に神仏分離政策が行なわれるまで神道と仏教は入り混じった状態で信仰を受けてきた歴史があります。
厳島神社においても、社殿は寺院風に朱塗りがなされており、かつては神社内に仏像が祀られていました。神社に伝わる平家納経も、清盛ら平家一門が極楽往生を願って奉納したものです。明治時代に仏教との分離がなされるまでは大聖院や大願寺といった厳島内の寺院も厳島神社の一部であり、厳島神社付近では明治時代に廃された仁王門などの跡も見ることができます。
この時期、厳島神社の本殿も仏教的とされた建築の一部が変更され、朱塗りが落とされて白木の社殿になった他、屋根には神社建築特有の鰹木と呼ばれる飾りがつけられましたが、大正時代の修復時にこれらは創建当初の姿に戻されています。長らく習合した状態で信仰されてきた日本の神道と仏教、この特異な信仰形態と、それが分離した過程についても厳島神社で感じることができます。
4.おわりにー訪れる際のポイントー
ここまで世界遺産である厳島と厳島神社の歴史や特徴、見どころについて紹介しました。
海に浮かぶ特徴的な建築群が最大の見どころですが、実際に訪問する際は、神仏習合や廃仏毀釈に代表される仏教と神道の関係性や、弥山を背景に海に浮かぶ社殿から感じられる日本の精神性や自然崇拝について、そして建築の様式そのものについても押さえておくとより楽しむことができます。
厳島には神社の他にも訪れたい場所が多くあります。
神社の背後には厳島最高峰の弥山(標高535m) がそびえています。1200年前に弘法大師空海が修行した霊山として知られ、厳島信仰のルーツの場所といえるでしょう。
弥山の山内には数々の巨岩奇岩が織りなす風景が広がり迫力があるほか、山頂からの景色は明治時代の偉人伊藤博文に「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と称された絶景です。
さらに神社より徒歩6分ほどの場所にある『大聖院(だいしょういん)』は唐より帰朝した空海が一時修行を行ったとも伝わっているお寺です。
明治時代までは厳島神社と一体として信仰を受けてきた歴史を持っている由緒あるお寺であるほか、現在でも厄除けや開運祈願のお寺として、地元の方をはじめ多くの方からの崇敬を集めています。
これらの他にも、参道の商店街での食べ歩きや、厳島神社境内でも豊国神社(千畳閣)や五重塔、多宝塔など、本殿以外の建物をしっかりと見てみても楽しめるかと思います。
名称 | 厳島神社 |
住所 | 〒739-0588 広島県廿日市市宮島町1-1 |
電話番号 | 0829-44-2020 |
参拝時間 | 12月1日 ~12月31日:6:00~17:00 時期によって変動、夏季は18:00まで |
アクセス方法 | 宮島口フェリー乗り場からJR西日本宮島フェリーに乗船 |
拝観料 | 大人:300円 |
関連サイト | https://www.itsukushimajinja.jp/ |