北畠氏館跡庭園を訪れる(三重県津市)

3 min

1.北畠氏館跡庭園とは

北畠氏館跡庭園入口
©岩本まさき

この記事で紹介する北畠氏館跡庭園は、三重県津市の山あい、奈良県との県境に近い美杉町多気地区にある庭園です。

多気地区は南北朝時代から戦国時代の末期まで伊勢国(現在の三重県南部)南部を中心に勢力を広げた公家大名、北畠氏が本拠地としていた場所にあたり、今回紹介する北畠氏館跡庭園の周囲には北畠氏の歴代当主たちが暮らす屋敷があったことが発掘調査によって判明しています。

北畠氏は元々公家として朝廷に仕えていた一族ですが、後醍醐天皇が天皇親政を行った『建武の新政』に参画し、その後足利尊氏が後醍醐天皇から離反して南北朝の争乱が始まってからは南朝の軍事的な中心をも担っていきました。

この時代に活躍したのが『神皇正統記』を著した北畠親房や、その長男で若くして南朝方の主力を担った北畠顕家らで、彼らの名は軍記物語である『太平記』によって広く知られています。
この二人は近年では週刊少年ジャンプ連載作品の『逃げ上手の若君』にも登場を果たしており、世間での知名度がより上がったのを感じます。

北畠顕家銅像
©岩本まさき

北畠親房と長男顕家の親子が南朝の主戦力として各地を転戦した一方で、ここ伊勢には親房の三男にあたる顕能(あきよし)が残り勢力を扶植します。
山上に堅城と名高い霧山城を、山麓に屋敷と城下町を整備して、以後戦国時代の終わりに織田信長によって滅ぼされるまで、北畠氏は9代240年に渡って繁栄していきます。

この場所に北畠氏館跡庭園が整備されたのは室町時代後期のこととされています。
時代は応仁の乱以降、戦乱が日本各地に広がっていた頃にあたります。将軍の権威は低下し、さらに将軍を支える管領細川家内でも内紛が発生、畿内地域は激しい戦乱のただ中にありました。

続英雄百人一首より細川高国

この庭園を造った人物は、そうした混乱の中で管領職も務めた細川高国という人物とされています。
その根拠として、庭園が造られたのと同時期、高国が援軍の要請のために北畠氏を訪ねていた記録が残ることと、造園の翌年、高国が死に際して北畠氏の当主に
『絵にうつし石を作りし海山を のちの世までも目かれずや見ん』
という辞世の句を送っていること、そしてこの庭園の様式が滋賀県に現存する高国作庭の旧秀隣寺庭園と酷似していることなどが挙げられています。

細川高国は庭造りに情熱を傾けた人物であることがわかっており、北畠氏館跡庭園、旧秀隣寺庭園のほか、福井県の旧玄成院庭園も高国の作庭と伝わっているほか、洛中洛外図屏風には広大な庭園を伴う高国邸が確認できます。

この時代の庭園が当時の姿のままに残っていることは非常に珍しく、質実剛健な庭園のデザインからは、当時の武士の嗜好を活き活きと感じることができます。

2.庭園を歩いて

北畠氏館跡庭園須弥山石
©岩本まさき

私が北畠氏館跡庭園を訪れたのは、2024年のお盆を過ぎたころのことです。

猛暑の中の訪問ですっかり弱りながら、庭を管理する北畠神社の社務所へ向かいます。
「お庭の中は日陰で涼しいですし、ごゆっくりどうぞ」と労っていただき、お庭の中へとすすみます。

神社の境内にある庭園は樹陰が多く、中心に池を伴うことで見た目にも涼しい雰囲気があります。
池は複雑な汀線を持つためにひと目には全貌をとらえ難く、庭園そのものに起伏もあることで、実際にはそこまで広くないものの、奥行きの感じられる造りとなっています。

庭園の真ん中にある入口からは三方に園路が伸びており、そのうち正面のものは橋を渡って池を半周、入口右方に戻ってくるものとなっており、左方の園路は庭園東部の石組近くまで伸びています。

庭園の様式も庭園東部(庭園左側)と西部(右側)で異なっているようで、東部は築山を背後に特徴的な須弥山石が屹立する枯山水庭園であるのに対し、西部は池の周りを歩くことができる池泉回遊式庭園であることがわかります。

庭園東部にある須弥山石を中心とした石組みの美しさが特筆すべきことなのは勿論ですが、石組みの素朴な力強さは北畠氏館跡庭園の全体に見られることで、池の周囲の護岸石組みや入口に入ってすぐにある亀石、そして庭園北西部の橋石組など、随所に魅力的な石の配置がみられます。

3.庭園の見どころ

北畠氏館跡庭園
©岩本まさき

北畠氏館跡庭園の見どころは、400年以上前に造られた庭園石組みが当時の姿そのままに残り、目の前で鑑賞できることにあります。

室町~戦国時代の庭園としては、先述した細川高国作庭のもののほかにも一乗谷朝倉氏庭園なども名庭園として名前があがりますが、この時代の武家庭園は戦乱による荒廃などにより元々現存するものが多くなく、現存しているものもかつてはあったであろう池を失っていたり、土砂の中に埋もれていた状態を発見されたりしています。

そうした中でこの庭園は石組みや池が当時の姿そのままに残されており、幕府の重鎮が築き、守護大名家の当主達が日々眺め、そして北畠氏が滅びた際には織田信長も見たであろう庭園の姿を残しています。

また、コンパクトな庭園でありながら様々な工夫が見られる庭園であることも特徴的で、庭のほぼ中央にある池を複雑な形で造り出していることや、庭の左右で表現方法が異なる点などからは、後の大名庭園に繋がるようなエンターテイメント性を感じる気がしています。

⒋おわりに

北畠氏館跡庭園
©岩本まさき

ここまで北畠氏館跡庭園について話してきました。

三重県と奈良県の県境の山中にある庭園ということで、正直なところアクセスが良くはありませんが、山に抱かれた静かな庭園はそれだけで訪れる価値がある空間でした。

庭園は北畠氏の当主達を祀る神社『北畠神社』の境内にあり、境内にはかつてこの地にあった北畠氏居館の遺構の説明パネルや、若くして散った悲運の武将北畠顕家の銅像も立っています。

北畠神社
©岩本まさき

現在ではアクセスの良くない場所ではあるものの、鉄道が開通する以前、周囲は伊勢地域と大和地域を結ぶ伊勢本街道が通る交通の要衝であり、多気地区を含む沿道の各地には歴史と文化が息づいています。

訪れた際には付近の『津市美杉ふるさと資料館』などもあわせて訪れ、地域の歴史について調べてみても面白いのではないでしょうか。

名称北畠氏館跡庭園
住所〒515-3312
三重県津市美杉町上多気1148
電話番号059-275-0615 (北畠神社)
営業時間9:00~16:30
入園料300円
主なアクセス方法JR名松線「伊勢竹原駅」から「丹生俣」行き市営バスにて約40分
関連するサイトhttps://www.kankomie.or.jp/event/5702
岩本まさき

岩本まさき

1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職後は、ツアーへの添乗や旅行系のライターとして務め、個人・少人数向けツアーも多数企画しています。
お仕事のご依頼はお問い合わせからお願いします。

FOLLOW

カテゴリー:
関連記事