目次
1.はじめにー石見銀山遺跡とその文化的景観の概要ー
この記事では、島根県の西部にある世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」について紹介します。内容としては、世界遺産に認定された理由と、構成資産の特徴について解説します。
「石見銀山遺跡とその文化的景観」は平成19(2007)年にユネスコの世界文化遺産に登録され、国内では「知床」に続き14例目の世界遺産です。
14の構成資産が存在し、銀鉱山跡と鉱山町のほか、鉱山と港をつなぐ街道、銀を積み出した港と港町など、多岐に渡る資産が登録されています。
2.石見銀山の歴史
ここでは石見銀山周辺の歴史について紹介します。石見銀山が発見された室町時代後期から大正12(1923)年の事実上の閉山、そして世界遺産登録までの流れを説明します。大内氏、尼子氏、毛利氏などの戦国大名たちによる石見銀山の争奪戦、最盛期にはヨーロッパにも知られた銀の産地であったことなどがポイントとなります。
石見銀山の開山
石見銀山の開山は大永6(1526)年、博多の商人である神谷寿禎(かみやじゅてい)という人物によるものと言われています。寿禎は当時石見地域(島根県西部)と山口県全域、そして九州北部までを支配していた戦国大名・大内氏と関係の深い商人で、日本海を航海している途中に海上から光り輝く山を見つけ、技術者を連れて採掘したのが石見銀山の始まりとされています。
当初、採掘された銀鉱石は博多商人によって博多や朝鮮半島まで運ばれて、製錬されていました。鉱石の運搬コストを削減するため、天文2(1533)年には精錬法『灰吹き法』の技術者が石見銀山に招かれました。
灰吹き法は金や銀を鉱石から鉛に溶け込ませ、その鉛合金に熱を加えて鉛を取り除くことによって、金や銀を取り出します。灰吹き法の導入によって石見銀山の産銀量は大幅に増加しました。
石見銀山は大内氏の支配下で繁栄し、銀山の周囲には矢滝城をはじめとした山城が構築されるなど、防衛体制も整えられました。
石見銀山の争奪戦
しかし莫大な銀を産出する石見銀山は周辺の勢力にとって魅力的なものでした。石見銀山は周辺勢力による争奪戦の舞台となっていきます。
天文6(1537)年には出雲(現在の島根県)を本拠地とする戦国大名の尼子(あまご)氏が石見銀山地域に侵攻しました。以降は尼子氏に味方する地方豪族も含め、様々な勢力と大内氏による度々の攻防が石見銀山周辺で発生しました。
大内氏による石見銀山支配は1550年代まで続きましたが、天文20(1551)年に発生した家臣の謀反(大寧寺の変)によって大内氏の家中は混乱し、急速に衰退しました。石見銀山の支配権は大内氏に変わり尼子氏のものとなりました。
尼子氏の支配は以降5年間続きましたが、大内氏の傘下にあった毛利元就(もとなり)が独立し、勢力を拡大すると、永禄4(1561)年には石見銀山の支配権は毛利氏へと移りました。
銀山を制圧した毛利氏は翌永禄5(1562)年に朝廷や室町幕府などに生産した銀を献上するなど、中央政界での地位向上も積極的に行いました。
また、毛利氏は銀積み出しの主要港を温泉津(ゆのつ)に変え、温泉津へのアクセスルートとして温泉津沖泊(おきどまり)道が整備しました。
しかし、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでの敗北により、毛利氏が石見地域の領有権を失うと、一帯は天領として江戸幕府直轄の代官によって治められるようになりました。
江戸時代の石見銀山
江戸時代初期に石見銀山は最盛期を迎えました。天領時代には、季節風が吹く日本海航路を避け、安全な陸路で銀を運ぶため尾道へ向かう銀山街道が整備されました。この頃の銀山地域の人口は数万人にも達していたと推定されています。
石見銀山は繁栄を極め、石見地域を中心とした国内の銀生産は年間約20万kg、世界の銀生産量の3分の1に相当し、当時の日本は銀の一大輸出国となっていました。
オランダやイギリスも日本に来航し、対外交易は盛んとなりました。ヨーロッパで発行された当時の地図には「Hivami(石見)」、「Argenti fodinae(銀鉱山)」という記載が見られ、石見銀山はヨーロッパにも広く知られていました。
しかし、1640年代以降石見銀山での銀の採掘量は減少しました。採算が悪化するようになると、休山状態となる坑道も出ました。元禄4(1691)年には92の坑道のうち63の坑道が、江戸時代後期の文政6(1823)年には279あった坑道のうち、247の坑道が休山状態となっており、衰退の一途を辿っていたことがわかります。
石見銀山の衰退と世界遺産への登録
慶応3(1868)年に江戸幕府が倒れると、石見銀山は新政府によって個人経営者へ売却されました。明治20(1887)年には藤田組(現DOWAホールディングス)が鉱山経営を開始、第一次世界大戦期には銅477t、銀4tを採掘しましたが、大正12(1923)年には経営不振によって休山を迎えました。
以降、一時採鉱再開も目指されましたが実現せず、昭和32(1957)年に大森地区・銀山地区の住民によって「大森町文化財保存会」が結成されると、官民協働体制で銀山遺跡保護活動が活発化しました。
昭和44(1969)年に6つの間歩(鉱山の掘り口)と代官所などが国の史跡に指定、平成16(2004)年に温泉津町の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されるなど、銀山周辺地域では史跡保存活動が進められました。こうした取り組みも評価され、石見銀山遺跡は平成19(2007)年に世界文化遺産に登録されました。
3.世界遺産に登録された理由
この章では、石見銀山がどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを紹介します。
該当する評価基準
世界遺産の評価基準は10個あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。石見銀山はこれらの基準のうち、下記3つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。
- 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流またはある文化圏内での価値観の交流を表すものである。(価値基準2)
- ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在である。(価値基準3)
- あるひとつの文化を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である。(価値基準5)
ここからはそれぞれの価値基準を満たした理由について説明していきます。
日本と世界の交流をもたらした銀
(該当価値基準2:ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すもの)
石見銀山が世界遺産に登録された理由として、世界に与えた影響の大きさが評価された点があげられます。石見銀山が銀を多く産出した時期は戦国時代から江戸時代の初期にかけてであり、中国・明王朝における外敵や内乱による動揺期、ヨーロッパの大航海時代と重なります。
産出した銀は日本では大名たちの貴重な資金源となり、明では主にモンゴル軍に対する防衛資金となったほか、ポルトガル王国は銀を用いた三角貿易によって莫大な利益をあげました。
石見の銀は、南米やアフリカを含み広範な支配領域を持ったポルトガルで流通し、当時取引された世界全体での銀の総量のうち、少なくとも10%は石見銀山のものであったと推測されています。石見銀山で産出した銀は世界中で広く流通し、それによって当時の世界経済にも大きな影響を与えました。
良好に残る日本独自の銀生産システム
(該当価値基準3:ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在)
石見銀山が世界遺産としての評価を得た2つ目の理由は、日本独自の伝統的な銀生産の史跡が良好な状態で保存されている点にあります。
石見銀山は大永7(1527)年から大正12(1923)年までの400年間ほど採掘がされていましたが、採掘装置や手法が近代化したのは、日本の鎖国政策が終了した19世紀後半以降でした。
そういった背景もあり、石見銀山では伝統的な採掘や製錬の考古学的証拠がそのままの状態で残されました。
現在でも石見銀山地域を訪問すると、鉱山労働者とその家族が送った生活の様子や採掘設備を確認できるほか、大森エリアから見える山々には多くの遺跡がほとんど手つかずのままで残されています。
銀山・港・輸送路など、総体を留める鉱山活動
(該当価値基準5:あるひとつの文化を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本。)
世界遺産・石見銀山には、銀の採掘がされた鉱山跡だけでなく、銀の製錬所や街道、港の施設や鉱山労働者が生活した町、宗教施設や商家など、銀の生産に関わる史跡が総体的に登録されています。
これらの史跡は一体となり、鉱山を中心として、文化的景観が形成されています。石見銀山の採掘期間は長く、時間の経過と共に鉱山がいかに拡大し、鉱山運営がどのように変遷していったのかについても総体的な形で変化を示している点も評価されています。
4.石見銀山の構成資産
ここからは、各構成資産の特徴について説明します。
世界遺産・石見銀山の構成資産は、銀の採掘を行なった銀山柵内と呼ばれるエリアを中心に島根県大田市の広い範囲に広がっています。
全ての資産を短期間で訪問するのは現実的ではありませんが、銀の採掘がされた大森地域にはガイダンス施設である「石見銀山世界遺産センター」のほかいくつかの構成資産が集中しており、石見銀山の周遊の拠点としておすすめです。
①銀山柵内(ぎんざんさくのうち)
島根県大田市大森町にある銀山の中心的なエリアです。東西2.2km・南北2.5kmほどの範囲が世界遺産に指定されています。
大森の銀山集落を中心とした周囲の山々から銀採掘が行われ、江戸時代にはそれら鉱山の範囲を明確にするために幕府によって鉱山地域には柵が設けられていました。
そのため現在でも鉱山の範囲は「柵内(さくのうち)」「山内(さんない)」等と呼ばれています。
江戸時代、石見銀山で働く鉱山労働者はその多くが柵内に居住していましたが、柵内の住民達には年貢の負担が無く、さらに屋敷税が免除されるなど優遇されていました。
柵内地域には銀の生産活動はもちろんのこと、銀の流通や人々の暮らしに関わる遺構や遺物が良好に残されています。
②大森代官所跡
島根県大田市大森町にある、石見銀山領の行政を司った代官所跡です。
現存している建物は明治時代後期に郡役所として建てられた建物で、現在は「いも代官ミュージアム・石見銀山資料館」として使用されています。
館内では「いも代官」と呼ばれ、江戸時代中期に発生した享保の飢饉の際、サツマイモの普及によって領民を救った「井戸正明(いどまさあきら)」をはじめとした歴代代官の説明がされています。ほかにも、銀鉱石や精錬関係の道具が展示されるなど、石見銀山の歴史を追体験することができます。
③矢滝城跡
矢滝城跡は、島根県大田市温泉津町にある山城跡です。
16世紀に石見銀山と物資の供給源となる港を防御するために築かれた山城で、矢滝城は大永8(1528)年、当時この地を支配した周防(現在の山口県)を本拠地とした戦国大名「大内義興(おおうちよしおき)」によって築城されたと考えられています。城は海抜634mの山頂付近に広がっていたと考えられ、周囲には石垣や堀も見られる山城でした。
16世紀、石見銀山は周防の大内氏や出雲の尼子氏、そして安芸(現在の広島県)の毛利氏など、戦国大名たちが領有権を争った場所であり、矢滝城の支配者もまた目まぐるしく変わっていました。
江戸時代に入り、石見銀山が天領(江戸幕府直轄領)になると矢滝城などの中世城郭は徐々に廃城となりました。
矢滝城には第二次世界大戦後、レーダー基地や放送施設が置かれ、現在ではかつての山城の遺構はわずかに残されるのみとなっています。
④矢筈城跡
矢筈城跡は、島根県大田市温泉津町にある山城跡です。
16世紀に石見銀山と物資の供給源となる港を防御するために築かれた山城で、温泉津・沖泊道の北側、海抜480mの高台に築かれています。
詳細な築城年代ははっきりとしていませんが、大永年間(1520年代後半から1530年代の前半)の間に大内氏によって築かれたと考えられています。
街道を挟んで位置する矢滝城と比べて城の面積は小さいものの、石垣や堀、土塁が築かれ、山城として十分な機能を有していたと考えられています。
江戸時代以降は他の山城と共に廃城となり、今では砦の名残が地形に見られるのみとなっています。
⑤石見城跡
石見城跡は、島根県大田市仁摩町にある山城跡です。
銀山柵内から北西方向に5kmの場所、標高153mの岩山の山頂部に築かれており、温泉津や石見銀山地域に影響力を持った豪族によって築城されたと考えられています。
一帯は石見銀山の北側を防衛する重要拠点であり、石見城跡には現在でも深い堀跡や複数の土塁跡を確認することができます。
江戸時代以降には他の山城と共に石見城も自然に返っていくこととなり、現在では崖に咲くノウゼンカズラの花を楽しみながらトレッキングを楽しめるスポットとなっています。
⑥大森銀山重要伝統的建造物群保存地区
島根県大田市大森町にある、石見銀山領の中心街です。
大森の町は1600年代の前半から石見銀山の行政と商業の中心地として機能してきた歴史を持っており、奉行所を中心に商人や武士が移住することで町が作られていきました。
大森の町は狭い谷の中にあったことから、江戸時代の町には珍しく、武家町や商人町が明確に区分けされず、様々な階層と職業の人々が密集して混ざりあう、当時としては特異な都市構造となっています。
大森地区の家々は、その多くが雪に強い石州瓦(赤茶色の瓦)で葺かれているのを目にすることができますが、伝統的な武家屋敷や行政施設は灰色の瓦で葺かれており、様々な階層の人々が集住する中で、灰色の瓦が権威の象徴とされたことを窺い知ることができます。
⑦宮ノ前地区
島根県大田市大森町にある、石見銀山の銀精錬工房跡遺跡です。
代官所からも近い場所にある遺跡で、発掘調査によって16世紀末~17世紀初頭の銀の精錬が行なわれていたことが判明しています。
遺跡からは銀の精錬に使用する炉の跡が24基が見つかっており、銀山で発掘された銀を炉によって精製することで純度を高めていたと考えられています。
⑧熊谷家住宅
島根県大田市大森町にある、石見銀山に影響力を持った商家住宅です。
総漆喰の白い外観が特徴的な日本住宅であり、住宅内では座敷の建具や敷物、床飾りなどを見られるなど、昔ながらの日本住宅の風情を感じることができます。
熊谷家は元々毛利家の重臣だった一族とも伝えられ、江戸時代以降は銀山の経営のほか、金融業や酒造業、代官所への金貸しなども行う石見銀山地域で最も有力な商人でした。
現在の建物は寛政12(1800)年に大森を襲った火事以降に再建されたものですが、当時の商人の生活が伺える貴重な商家建築です。
⑨羅漢寺五百羅漢
島根県大田市大森町にある寺院に祀られている五百体の羅漢像です。
五百羅漢は仏教の創始者である釈迦に従った500人の弟子のことで、仏よりも人々に近い存在として、人々の信仰を集めてきました。
銀山での鉱石の採掘は命がけの仕事であり、また採掘による粉塵の影響から肺を患い、早くに亡くなる人も多い環境でした。
銀山で働く人々が神仏にすがったことから、現在でも銀山周辺には多くの神社仏閣が見られますが、中でも羅漢寺は「参詣すると亡くなった父母や近親者に会える」という噂によって、多くの信仰を集めたと伝えられています。
完成までに25年の歳月を要した五百羅漢像は、現在も残されており、説法をしている姿や笑っている姿など、様々な表情の像を見ることができます。
⑩石見銀山街道 鞆ヶ浦道
石見銀山街道鞆ヶ浦道は、鞆ヶ浦が銀の積み出し港として機能した16世紀前半に、銀山柵内から日本海までを最短距離で結んだ街道です。
鞆ヶ浦道の全長は約7.5kmで、人や牛馬の往来ができる最小限のものとなっています。全行程を通して起伏が多いのが特徴で、尾根部の通行も多いことから、土橋を架けた部分や切通しを行なった部分など、道を普請した跡も良好に現存しています。
道中にある上野集落を中心に、銀鉱石を盗み首を切られた人の胴体が弔われたとされる「胴地蔵」や道中で女性に化けて銀の運搬者を誘惑したとされる「人切岩」など、銀鉱山の搬出や交通に関わる伝承もみられます。
⑪石見銀山街道 温泉津・沖泊道
石見銀山街道温泉津沖泊道は、温泉津や沖泊が銀の積み出しなど、銀山経営の拠点として機能した16世紀後半に、銀山柵内から日本海までを結んだ街道です。
温泉津・沖泊道の全長は約12kmで、人や牛馬の頻繁な通行を想定しており、全体的に道がなだらかに整備がされています。
永禄5(1562)年に毛利元就が石見国を平定した後、それまで利用されていた鞆ヶ浦が手狭になったため、新たに温泉津が主要港となり、それに伴って温泉津・沖泊道の整備が進められました。
街道の中間にある西田の集落は戦国時代に武士を相手に商売をする人々が作った町といわれ、江戸時代以降は街道沿いの宿場町として銀山の発展と共に栄えてきました。
⑫鞆ヶ浦
島根県大田市仁摩町にある日本海に面した一帯とその周辺の集落です。
石見銀山の開発当初に銀の積み出し港として利用され、付近には石見銀山を発見した博多の商人が建立した厳島神社なども残されています。
鞆ヶ浦は銀山柵内から北西方向に6km移動した所にあり、銀は鞆ヶ浦から博多などを経て朝鮮半島や中国との交易に使われ、大内氏の経済力を支えました。この時期の鞆ヶ浦は廻船業によって栄えたことが伝わっています。
しかし、鞆ヶ浦が銀の積み出しに使われたのは30年ほどに過ぎません。永禄5(1562)年に毛利氏が石見銀山を領有すると、手狭な鞆ヶ浦は使われなくなり、住民は漁業や農業、製塩へと転業したため、現在は静かな港湾風景が広がっています。
⑬沖泊
島根県大田市温泉津町にある、日本海に面した港とその周辺の集落です。
毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半から銀を輸出し、銀山への物資補給地点として利用されました。リアス式海岸で波が静かで水深が深いことから、大型船の出入りも容易でした。
江戸時代には銀の積み出し港としての機能のほか、大阪から下関を経て北海道に至る「北前船」の寄港地にもなっており、港内には船を係留するため、多くの穴が開けられた「鼻ぐり岩」のほか、航海安全の恵比寿神社や船舶用の共同井戸など、往時の繁栄が感じられる遺構が残されています。
⑭温泉津重要伝統的建造物群保存地区
島根県大田市温泉津町にある、日本海に面した海と集落です。
「ゆのつ」という名前の通り、温泉津は古くから温泉のある港町として知られ、温泉津温泉の開湯は1300年前ともいわれています。
中世には毛利氏が銀山と繋がる港町として重視したため、中国や朝鮮半島などとの貿易によって温泉津は国際港としての繁栄しました。
江戸時代に入ると、北前船の寄港地となったため、地元の商人達は海運業に参入、大きな富を得たことで、現代の温泉津に繋がる道路や水路を含めた区画の整備もこの時代に進められました。
江戸時代末期に銀の採掘量が減少し、明治時代には鉄道駅の開業がされたことで温泉津の海運業は衰退しましたが、以降は温泉業と窯業を主要産業とし、大正時代に建造されたレトロな建物群が残ります。
5.おわりにー旅をする際のポイントー
ここまで世界遺産である石見銀山の歴史や特徴、見どころについて紹介しました。
中世の鉱山掘り口である「間歩」の見学が最大の見どころですが、観光する際は、石見銀山が銀の採掘から製錬、運搬までを一気に見ることができる世界遺産であることは大きなポイントです。
また、石見銀山は大内氏や毛利氏ら戦国大名の争奪戦の舞台となったほか、世界の経済にも影響を及ぼしました。これらの歴史エピソードを理解していると、さらに楽しく歩くことができるのではないでしょうか。
交通アクセスの注意点
また、石見銀山遺跡は自然との共生の中で栄えた銀鉱山跡であることから、大森地域では環境保全を目的に交通規制が行われています。観光バスでの訪問には事前予約が必要であるほか、自家用車での訪問も石見銀山世界遺産センターへ駐車した上で、シャトルバスにて観光エリアに向かう必要があります。旅程を組む際には注意してください。
大森地域にはJR山陰本線の大田市駅などから路線バスでアクセスができるため、そちらも活用すると良いでしょう。
他の世界遺産を取り上げた記事も掲載予定ですので、そちらもあわせて参照してみてくださいね。