那智山 青岸渡寺を参拝する(和歌山県那智勝浦町)

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1.はじめにー青岸渡寺と熊野信仰の概要ー

青岸渡寺本堂

この記事では和歌山県南部、那智勝浦町にある「那智山 青岸渡寺(なちさん せいがんとじ)」について紹介します。

境内の見どころはもちろん、お寺の由来と歴史についても説明していきます。

那智勝浦町をはじめとする、和歌山県南部から三重県南部にかけての地域は古来から「熊野」と呼ばれてきた地域にあたります。
熊野地域は海岸線沿いのわずかな平地以外、全域が紀伊山地の険しい山々に覆われており、さらに南の太平洋を流れる黒潮がもたらす高温多湿な気候は、それらの山々に濃密な森林を育んできました。

侵入を拒むような圧倒的な熊野地域の自然に、人々は神性を見出してきました。平安時代末期以降の皇族・貴族による熊野御幸や、江戸時代の庶民による「蟻の熊野詣」が有名ですが、それ以前の奈良時代から熊野の山中で法華経を読んで修行をする「持経者(じきょうしゃ」が存在し、現在においても一帯は修験者達が駆ける修験道の聖地の立場を守っています。

そうした信仰の歴史の中で熊野地域には多くの聖地・行場が設けられることとなりましたが、中でも那智瀧はその圧倒的な存在感から、最重要の修行場であり、さらに滝そのものがご神体として大切にされてきました。

那智瀧
©廣畑智巳

那智瀧周辺には今も青岸渡寺や飛瀧神社(ひりゅうじんじゃ)、熊野那智大社(明治時代までは青岸渡寺と一体)が位置しているほか、瀧の周辺からは飛鳥時代の小金銅仏、奈良時代の錫杖など、各時代の様々な仏教遺物が大量に発見されています。

熊野信仰の中で青岸渡寺・熊野那智大社の存在感は大きく、2004年7月には熊野本宮大社・熊野速玉大社、そして参詣道などと共に世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にも登録されています。

2.由来と歴史

青岸渡寺三重塔
©岩本まさき

青岸渡寺の由来は、寺伝では現在から1600年前、遠くインドから渡ってきた裸形上人(らぎょうしょうにん)が那智の瀧で修行をし、滝壺で得た如意輪観世音菩薩を安置したことが始まりとされています。
その後の飛鳥時代には、お寺が推古天皇の勅願所となり、諸堂の整備が進められたと伝わっています。
これらのエピソードは伝承であり、お寺の詳細な創建時期は不明ですが、先述の仏教遺物の発見などからも、那智瀧を中心とする信仰の場として、周辺が古くから開けていたことは間違いありません。

平安時代の中期以降になると朝廷の人々による熊野詣・熊野御幸が見られるようになっていきます。延喜7(907)年に宇多法皇、永延元(987)年に花山法皇が熊野参詣をした記録が残り、以降平安時代後期から鎌倉時代初期には上皇・法皇の多くが熊野地域への参詣を行っています。
彼らが遺した和歌や日記などからは、当時の人々が感じた旅路の苦しみや、その旅路を抜けて熊野にたどり着いた時の感動が伝わってきます。
那智の瀧についての和歌は下記二首などが残されているほか、藤原定家の遺した日記「明月記」からは、道中の祭祀や儀礼の様子の細かな記述、道中の苦労を確認することができます。

「石走る 滝にまがいて 那智の山 高嶺を見れば 花の白雲」(那智の山を見上げると瀧と桜の花が入り乱れている)花山法皇
「雲消ゆる 那智のたかねに月たけて 光をぬける 滝の白糸」(那智山の上の雲が晴れ、冴えわたる月光を瀧の白糸が貫いている)西行法師

那智瀧と青葉
©しっぽしゃっぽ http://kazenoohirune.net/

さらに時代が下り、中世に入ると熊野信仰は武士階級にも広まりを見せ、室町時代には庶民階級へも熊野詣は波及していきました。
これら信仰の広がりには青岸渡寺など熊野三山に所属し、各地の参詣者を熊野へ導いた「御師(おし)」や、熊野信仰の功徳を人々に説いて回った「熊野比丘尼(くまのびくに)」と呼ばれる尼僧の存在が大きく影響を与えました。
熊野比丘尼が人々に熊野の神仏の功徳を説く際には、「曼荼羅(まんだら)」と呼ばれる絵画が多く用いられましたが、中でも那智瀧とその周辺を描いた「那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)」は最も多くの作例が残っており、多くの人々が熊野の地、そして那智に憧れを持ったことが伺えます。
同時期には東国から伊勢を参拝後、熊野古道伊勢路を通って熊野三山を巡拝後に紀三井寺を目指すルートでの巡礼、「西国三十三所(さいごくさんじゅうさんかしょ)」も盛んになりました。

3.境内のみどころ

那智滝
©岩本まさき

この章では青岸渡寺の見どころについて説明します。青岸渡寺は明治時代までは神仏習合した状態で「那智山権現」等と呼ばれる、那智の瀧や熊野那智大社と同一のものとして信仰されてきた歴史があります。
境内には下記の見どころがありますが、参拝の際は隣接した那智の瀧や熊野那智大社まで、ぜひ足を延ばしてみましょう。

本堂

本堂は飛鳥時代に推古天皇によって整備されて以降6回改築を受けていると伝わっている建物です。現在の本堂は天正9(1581)年4月に織田軍の兵火によって旧本堂が炎上したことを受け、天正18(1590)年、豊臣秀吉によって再建されたものです。
本堂に掛かる大鰐口も現在の本堂と同時期に鋳造されたものです。直径1.4m、重量450㎏の日本最大の鰐口は迫力があります。

如意輪観世音菩薩 お前立ち仏

青岸渡寺本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏ですが、秘仏前の「お前立ち」仏を拝することができます。
半跏像で名前の由来にもなった如意宝珠と法輪を掲げており、如意輪観世音菩薩像として多く見られる作例が特徴です。
福徳をもたらす如意宝珠と、煩悩を打ち砕く法輪を持つことから、人々に知恵や福徳を与え、苦しみを抜くご利益があるとされる仏様です。

三重塔

青岸渡寺三重塔
©岩本まさき

那智参詣曼荼羅にも描かれている三重塔です。
本堂等と同時期の1581年に焼失し、昭和47(1972)年に再建されました。
塔内には階層ごとに諸仏がお祀りされているほか、塔の上からは那智瀧や、遥かに太平洋を望むことができ、塔そのものが熊野と那智に伝わる信仰を表しているかのようです。
青岸渡寺の本堂後方からは三重塔と那智瀧を同時に見ることができ、神秘的で美しい写真が撮れるフォトスポットとしても親しまれています。

4.おわりにー参拝のポイントー

大門坂
©しっぽしゃっぽ http://kazenoohirune.net/

ここまで那智山 青岸渡寺について説明してきました。
自然と建築物が一体となり、独自の文化を育んできた熊野地域は近年注目されてきているエリアです。2004年に一帯が世界文化遺産に登録されたことも追い風となり、紀伊山地の山中でも海外からの旅行者を見かけることも多くなりました。
その中でも那智山のエリアは、迫力のある那智瀧と神仏習合の文化を体感できる場所として、海外の旅行サイトにも多く取り上げられるなど注目されている場所です。

青岸渡寺には境内手前まで自家用車や路線バスなどでアクセスすることが可能ですが、麓からは熊野古道・中辺路の一部であり、美しい石畳で知られる「大門坂(だいもんざか)」が那智山まで続いています。
道中には樹齢数百年の杉木立が並び、今なお静かで神秘的な雰囲気を漂わせています。時間がある際は大門坂をあるいて那智山へアクセスし、かつての巡礼者達の気分を味わってみるのも良いのではないでしょうか。

また、青岸渡寺は現在においても様々な巡礼をする方が参拝する寺院でもあります。西国三十三所の一番札所寺院として広く知られているほか、「神仏霊場巡拝の道」などでも札所となっています。
そして、夏季には熊野修験の方々が峰入りをする、熊野修験の道場でもあります。2023年10月には、明治時代に取り壊された熊野修験の拠点「行者堂」が境内に再建されており、今後は境内で修験者の方々を見かけることも多くなっていくかもしれません。

名称那智山 青岸渡寺(なちさん せいがんとじ)
住所〒649-5301
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8
電話番号0735-55-0001
参拝時間7:00~16:30
(年末年始などは変更となる可能性あり)
参拝の所要時間おおよそ30分
主なアクセス方法紀伊勝浦駅からバス・徒歩で40分
入山料無料
関連するサイトhttps://seigantoji.or.jp/
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