目次
1.はじめにー日本庭園の定義ー
この記事では日本庭園の基礎知識として、日本庭園の成り立ちや様式について紹介します。
日本庭園は自然風景を模してデザインされる「自然風景式庭園」として知られており、水や石、植物を用いて構成されています。これらを用いて庭園を作ることで、実際の自然風景を縮小して表現するだけでなく、思想や物語も庭によって表現してきた特徴があります。
日本庭園は日本古来からある自然崇拝の考え方を背景に造られており、7世紀までには日本庭園の原型が完成していたと考えられています。その後日本庭園の形式は時代ごとに少しづつ変化し、浄土信仰や禅宗などの宗教の影響を受けながら、現在の形に整っていきました。
現在では日本庭園は全国各地で見られ、一説には名前の知られるものだけでも大小合わせて約2000ほどの庭園があるとも言われています。
禅や詫び寂びとも繋がり、寺社や博物館等様々なところで見かけるものの意外と知らない日本庭園について、この記事では説明していきます。
2.日本庭園の形式
日本庭園の特徴として、自然や建築との調和に重点を置いて作庭がされることと、池を掘ったり砂利によって海を再現するなど、水を中心とした造りが見られること、そして多様な様式が見られることの3つが挙げられます。
「日本庭園の歴史」で後述しますが、日本庭園は誕生以来様々な形式によって作庭され、様式が互いに影響しあってまた新しい日本庭園が生み出されてきた歴史を持っています。
ここでは日本庭園の代表的な形式をいくつか紹介します。
①寝殿造庭園(しんでんづくりていえん)
寝殿造庭園は寝殿造の邸宅に作庭された庭園です。
平安時代から中世にかけての上流階級の邸宅様式を『寝殿造』といいます。寝殿造の邸宅は南に面して建てられ、邸宅の正面南側には池を伴った庭園が多く造られました。
風水などの考えを取り入れた作庭がされたことが特徴で、東方から青龍に見立てた小川を引き、南の方向に朱雀に見立てた池が設けられていました。
寝殿造庭園は寝殿造の邸宅から眺める庭園でありながらも、祭祀や政治の場としての機能も併せ持っていました。小川では「曲水の宴」が、池の前にある広場では蹴鞠や雅楽の演奏などが行なわれたと考えられています。
植栽や庭園の造形には当時の貴族が好んだ自然風景の再現が図られており、マツが植えられ、荒磯の表現がされるなど海洋的な風景が庭園全体のモチーフとして好まれたと考えられていたことが伺えます。
②浄土式庭園
浄土式庭園は仏教の浄土の風景を表現して作庭された庭園です。
平安時代中期以降、貴族を中心に仏教の浄土思想が広まると、寝殿造庭園の西側に仏堂が造られ、仏堂の前には池を設けるなど、浄土思想を取り入れた庭が造られるようになっていきました。
その後平安時代後期に入ると末法思想の影響によって、より直接的かつ大規模に極楽浄土を庭園に再現する動きが見られるようになります。
『曼荼羅(まんだら)』と呼ばれる仏教の宗教画の配置に則って仏堂を庭園に配置し、それらを回廊で結んだほか、池の意味合いも神仙が住む島と海を再現したものから、極楽浄土の池を再現したものへと変化しています。
池には蓮が植えられるなど、植栽も浄土を意識したものとなっていたと考えられています。
③禅宗寺院庭園
禅宗寺院庭園は禅の思想を取り込んで作庭された庭園です。
鎌倉時代以降に武士階級を中心に禅宗が広がりを見せると、禅宗寺院に付属する禅宗寺院庭園も京都や鎌倉を中心に見られるようになっていきます。
禅宗寺院では寺院の建物内から美しい景色を眺め、詩を詠むことが修行の一環とされました。そのため禅宗寺院の庭園には禅の思想を取り込みながらも、見た目にも美しい庭園を整えることが求められました。
それまでの庭園と比べ、寺院が造営される前からの元々の地形をなるべく活かした庭園造りが意識されたほか、石組みを多用したことが特徴となっています。
また方丈や書院などから座って鑑賞する庭園として設計されることが多く、小規模かつ物語性のある庭が多いことも特徴です。
④枯山水(かれさんすい)
枯山水は水を用いず、岩や砂によって山や水の情景を表現した庭園の様式です。
石組みによって風景を表現した作庭方法は平安時代から見られますが、現在見られる様式の枯山水庭園は禅宗寺院庭園の分野のひとつとして室町時代に整えられたものです。
自然の風景や、中国の故事にまつわる物語を石組みで表現することが多く、それまでの庭園と比べて特に象徴的に造られていることが特徴です。
また、白い砂に箒で模様(箒目)をつけることで水面を表現した庭園が多く、さざ波や渦紋などの模様が見られます。
禅宗寺院の枯山水庭園が有名なため、枯山水庭園と禅宗は不可分のように思われることもありますが、あくまで水を用いずに岩や砂で山水を表現した庭を『枯山水』と呼称する点には注意が必要です。
⑤露地(ろじ)
露地は茶庭(ちゃにわ)とも呼称される、茶室に付随する庭園です。
本来は「路地」と表記されており、敷地の限られた都市部の町屋に茶室を造る際に、茶室へ至る通路を庭園として整備したことが誕生の由来と考えられています。
元々仏教の経典で「煩悩を離脱した世界」を意味する『露地』を路地の言い換えに用いているほか、『茶禅一味(ちゃぜんいちみ)』という禅と茶の湯の本質を同一する考えもあったことから、露地は詫び寂びの精神を表し、彩りの少ないものがほとんどです。
一方で茶の流派や考え方によって作庭方法に違いも見られ、美観を重視した古田織部(ふるたおりべ)の露地にはヤマモモなど果実をつけるものや、ソテツなど異国情緒を感じさせる樹木が植えられており、茶人の好みを見比べて楽しむことができます。
⑥大名庭園
大名庭園は江戸時代以降、各地の大名によって作庭された大型の庭園です。
大名庭園はそれまでにあった様々な庭園を集大成し、各地の大名の邸宅に設けられた庭園の総称であり、形式を示すものではありません。
一方で露地や枯山水、禅宗寺院庭園といったそれまでの庭園の要素を収集、発展させ、藩ごとに競い合って作庭された大名庭園には現存しているものも多く、さらに広い庭園内を散策しながら楽しむ回遊式庭園が多いことから、全国各地で観光の目玉として親しまれる庭園が多いことが特徴です。
日本三名園として親しまれる『兼六園(石川県)』『後楽園(岡山県)』『偕楽園(茨城県)』をはじめ、江戸の大名屋敷に由来する大名庭園が都内に多く残されており、庭園ごとの個性の違いを楽しむことができます。
3.日本庭園の歴史
ここでは日本庭園の歴史について解説していきます。
自然信仰からうまれた祭祀空間(古代)
日本庭園が作られていく背景には、日本古来の自然崇拝の考え方が影響を及ぼしていると考えられています。
青森県の『三内丸山遺跡』などでは、山を臨む方位や立地を意識してストーンサークルが築かれたほか、神が宿る巨石の周りに堀を設け結界として用いた遺構なども全国で見られます。これら水や石を神聖視し、それらを用いて聖域を整える考え方は日本人に受け継がれ、庭園の構成にも影響を与えました。
水や石を神聖視し、祭祀を行なう場所としての整備がされたものの代表的な例としては、三重県伊賀市にある『城之越遺跡(じょのこしいせき)』があげられます。
城之越遺跡は古墳時代の4~5世紀に作庭されたと推定されている遺跡で、「大型祭祀遺構」と呼ばれる流水を活かした祭祀遺跡が発見されていることが特徴です。
大型祭祀遺構では湧水の流れを活かした祭祀が行なわれていたと考えられており、側面に石を貼った溝によって湧水を導き、水が合流する地点には楕円形の広場が残されています。
これらはあくまで祭礼の場として造られたものですが、遺跡の造りからは現代の日本庭園に通じる雰囲気を感じることができます。
日本庭園の誕生(飛鳥時代~平安時代中期)
その後6世紀に日本へ仏教が伝来すると、作庭方法についても日本へ伝来し、それら作庭方法は日本古来からの水辺の景観のデザインや考え方とも融合し、独自の発展をしていきました。
当時政治の中心であった奈良県の飛鳥地域では、建物に囲まれた中庭に方形の池が造られていた跡が発見されているほか、石造の噴水施設跡が発見されており、外国使節を水辺の景観によって歓迎したことが伺えます。
また、同時期の『日本書紀』にも、渡来人が宮中に様々な庭園構造物を造った記録があり、飛鳥時代に入るころには上流階級の邸宅や、外交の場などには庭園が設けられることが多くなっていったと考えられています。
都が平城京へと移り奈良時代へ入ると、さらに大きな庭園が営まれるようになっていきます。『平城宮跡』の東端部、「東院(とういん)」と呼ばれる区画からは大規模な石組の園池や曲線を描く渚の意匠を持った大規模な庭園跡が発掘されています。この庭園は『平城宮跡東院庭園(へいじょうきゅうせきとういんていえん)』と呼ばれ、大規模かつ自然風景を活かした構成から、現在見られる「日本庭園」の基礎的な要素はこの頃には既に完成していることがわかります。
こうした邸宅の周囲に造られる庭園は、王朝文化の中でさらに洗練されていきます。都が京都へ移ると、奈良よりも水脈に恵まれた土地であることも作用し、元々あった池を利用、または掘って庭園へ組み込み、その周囲に寝殿造の邸宅を設ける『寝殿造庭園』と呼ばれる様式が見られるようになります。
寝殿造庭園では庭園は眺めを楽しむ場所でありながらも、儀式や行事に用いられる空間としての要素も強く、植生や池が無く白砂が広げられた空間『広庭(ひろにわ)』を有することが特徴です。広庭は雅楽の演奏や舞の披露が行なわれるなど、一種の舞台としての機能を有していました。寝殿造庭園で現存しているものはありませんが、京都の『神泉苑(しんせんえん)』などで遺構の一部を見ることができるほか、当時を再現した庭園として『紫式部公園』の寝殿造庭園などがあります。
また、この頃には世界最古の庭園解説書書と考えられている『作庭記(さくていき)』が京都の貴族の手で編纂されており、彼らが庭園に力を注いでいたことが感じられます。
作庭記は陰陽や風水の解説を行いながら、作庭にあたっての合理的な技術の解説もされており、現代においても日本庭園を理解する上で重要な書物となっています。
極楽浄土を具現化する庭園(平安時代後期~鎌倉時代初期)
平安時代が中期に差し掛かると、仏教の中でも浄土信仰的な考え方が人々の中に広がりを見せていくことになります。浄土信仰は死後に阿弥陀如来の住む美しい極楽浄土に生まれ変わろうとする考え方です。
日本では平安時代後期の1052年から末法の世になり、現世では人々の救済がされないという考え方が流行、死後に浄土へ生まれ変わるための様々な方法が模索されていきます。
死後に極楽浄土へ生まれ変わる方法としては、阿弥陀如来や極楽浄土を思い浮かべる「観想念仏(かんそうねんぶつ)」が有効とされ、観想念仏はやがてより多くの人へ伝えるために「口称念仏(こうしょうねんぶつ)」という口で唱える形を取って平民階級にも広がっていきます。
一方、仏教の知識を持つ貴族階級の間では口で念仏を唱えるだけでなく、観想念仏が極楽浄土へ生まれ変わるために重要であるとの考えが広まっており、極楽浄土をより詳細に想像するために、極楽浄土の姿を写したお堂や庭園が造られるようになっていきました。
浄土信仰的な庭園は『浄土式庭園』と呼ばれ、作庭記に見られる庭園作成のルールに則りながらも、阿弥陀如来が住む山を模した築山や、極楽浄土とこの世を隔てる池が効果的に庭園に取り入れられるなど、独自の構成が見られることが特徴です。
浄土式庭園の例としては、京都府宇治の『平等院』や、平泉の『毛越寺庭園』、京都府南部の『浄瑠璃寺庭園』などがあげられるほか、広島の厳島神社についても浄土の景観を意識して整備されたと考えられています。
これら浄土式庭園と寝殿造庭園の成立によって、それまでの庭園文化が「日本庭園」として確立されていきました。
禅宗と庭園(鎌倉時代~室町時代)
鎌倉時代に入ってもしばらくの間は各地で浄土式庭園が造られ続けましたが、1246年に中国から禅僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が渡来、鎌倉幕府執権の依頼によって鎌倉に『建長寺』を開山すると、以降建長寺は禅宗寺院の規範となり、同時に禅宗寺院庭園も徐々に広がりを見せることになります。
建長寺をはじめとした禅宗の伽藍には、中国の禅宗に由来する『境致(きょうち)』や境詩(きょうし)の考え方が強く表れています。境致とは禅宗に独特の言葉で、寺院とその周辺の自然を含んだ景観を指すものであり、禅宗ではそれら境致に向き合い、景色に名前をつけて詩を詠む境詩が修行の一環ともされました。
禅宗は鎌倉幕府の庇護によって、武士階級を中心に信者を増やしていき、信者の増加に伴って禅宗寺院も多く造営されていきます。ニーズの増加に伴い、この時代には作庭技術に特化した僧である「石立僧(いしたてそう)」と呼ばれる造園の専門家集団も登場しています。
臨済宗の高僧で、鎌倉時代後期から室町時代初期に活躍した夢窓疎石(むそうそせき)もこれら石立僧の一人に数えられる人物で、数々の有名な禅宗庭園を造ったことで知られています。中でも京都嵐山にある『天龍寺曹源池庭園(てんりゅうじそうげんちていえん)』は嵐山の自然を借景として取り入れただけでなく、「登竜門」など、禅の理念が石組みによって表現されていることも知られ、鹿苑寺や慈照寺といった室町時代に造られる禅宗庭園の手本となっていきました。
また、夢窓疎石の作庭による庭としては、日本最初の枯山水庭園である『西芳寺 枯山水式庭園(さいほうじかれさんすいしきていえん)』も広く知られており、彼は革新的な作庭によって日本庭園に新しい風を吹きこませていきました。
枯山水の誕生(室町時代)
室町時代に入ってしばらくは池を伴う禅宗庭園も多く造られていましたが、西芳寺枯山水式庭園を皮切りに、『枯山水』という庭園様式が浸透していくことになります。
枯山水と呼ばれる水を用いない作庭方法は室町時代以前からもありましたが、庭園全体に水を用いず、純粋な枯山水庭園として整えられたのは西芳寺枯山水式庭園が初であると考えられています。
さらに1467年から発生した応仁の乱によって京都が荒廃すると、時間と労力をかけず、狭い空間で大規模な造作をせずに造ることができる枯山水庭園は、京都の寺院や貴族の邸宅を中心に広まっていきました。
こうした庭園需要の増加は京都を中心に「河原者(かわらもの)」とも呼ばれる庭園技能を持った職人集団を生み出しました。彼らは被差別民でありながらも作庭技術によって室町将軍家などにも重用され、『慈照寺庭園』など、室町時代中期の様々な名園を築いたほか、彼らの重用は、それまで貴族や僧侶のみに伝わっていた作庭技術が多くの人々に広まるきっかけともなりました。
武家政権と日本庭園(戦国~安土桃山時代)
応仁の乱以降、日本各地に武家勢力が伸張すると、各地の武家は文化的な教養によって勢力を誇示するために、会所や屋敷などに大規模な庭園を設けるようになります。
この時代の庭園には戦乱の影響などから失われたものも多いですが、『北畠氏館跡庭園』や『一乗谷朝倉氏庭園』などからは、禅宗の思想を取り込みながらも、大規模な石組みや池も敷地内に盛り込んで作庭され、当時の武家階級の教養を感じることができます。
さらに時代が進み安土桃山時代に入ると、大書院建築と呼ばれる大型建築が流行するに伴い、庭園もより大規模かつ立体的なものとなっていきました。この時代の庭園としては立石を豪快に使った『阿波国分寺庭園』などが代表例として挙げられます。
一方で、安土桃山時代は茶の湯文化が大成した時代でもあります。千利休が整えた茶の湯は詫び寂びを重視したものであり、庭園文化だけでなくその後の日本文化全体に大きな影響を及ぼしました。
茶の湯を嗜む茶室は当時の民家形式で建てられた質素なものが多く、茶室の周りには『露地(ろじ)』と呼ばれる、深い山中の道を意識した小さな庭が営まれるようになります。
茶の湯は禅と本質が同じであるという考えがあったことから、露地は茶を嗜む前に煩悩から離れることを目的に作庭されています。そのため、茶室に向かう人の心を乱す草花は基本的に植えられず、落葉樹も適さないとされるなど、それまでの庭園と比べると小規模かつ彩りが少ないものが多いのが特徴となっています。
一方で茶の湯は禅的な空間で人をもてなす作法でもあることから、敷石や飛び石、石燈籠やつくばいといった、現在の日本庭園に繋がる様々な工夫や構造物も生み出しています。さらに、露地の出現によって庭園はそれまでの「眺める」ものから、庭園の中を「歩いていく」性質も持つようになっていきます。
大規模化する庭園(江戸時代)
江戸時代に入り太平の世となると、一定の教養を持つ公家や武家、僧侶などの間では、茶事や宴を催す社交の場として、露地の機能を持ちながらも枯山水の技法を使い、伝統的な池庭の様式を持った総合的庭園様式、『回遊式庭園』が多く作庭されるようになります。
この回遊式庭園は園内を徒歩や船で周遊することを想定して造られる大規模な庭園で、池を中心に築山や東屋を設けるなど変化にとんだ造作が特徴です。
特に各地の大名は領国と江戸の屋敷双方に回遊式庭園を設けることも多く、それら庭園の多くが現在まで良好な形で残されています。『日本三大庭園』はその全てが大名による回遊式庭園であるほか、『旧浜離宮庭園』や『栗林公園』など、大規模かつ美しい庭園の数々を今も楽しむことができます。
文明開化と日本庭園(明治時代)
明治時代に入ると、社会の構造は一変しました。
文明開化の流れは庭園にも押し寄せ、江戸時代までの庭園のルールを脱した新たな庭園造りが模索されました。また、それまで庭園をを造ってきた大名が姿を消したことで、代わりに実業家や政治家が庭園を造るようになっていきました。
特に山県有朋は明治の庭園界に大きな影響を及ぼした人物です。彼の求めた庭園は、それまであった石組や池の意味づけの一切を否定し、雄大な自然風景の庭園を最上のものとして作庭され、後に日露戦争開戦前の会議が行なわれた京都の『無鄰菴庭園(むりんあんていえん)』はその代表的なものです。
日本庭園史の整理と新たな日本庭園の誕生(昭和時代~現代)
昭和時代には、それまで体系化がされていなかった庭園史を、作庭家で日本庭園史研究家の重森三玲(しげもりみれい)が整えました。また、彼自身も様々な庭園を作庭しています。
重森三玲の庭園は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成され、見るからに新しさを感じられるものが多いものの、それまでの日本庭園の要素を抽出し、再定義したことが感じられるものとなっています。重森三玲の庭としては『東福寺本坊庭園』や『松尾大社松風苑』などが挙げられます。
重森三玲と同時期には飯田十基(いいだじゅうき)も活動し、こちらは住宅庭園を中心に、自己主張しすぎないスタイルの庭「雑木の庭」を造りました。
代表例としては『等々力渓谷日本庭園』などが挙げられ、彼のスタイルは日本の都市化と共に、公共建築の庭園などに大きな影響を与えています。
また、昭和以降は庭園が建物や都市景観にも跨って考えられるようになったことから、建築家や彫刻家によって、それまでにない日本庭園の秀作が生み出されるようになりました。
4.おわりに
ここまで主な日本庭園の種類と歴史について説明してきました。
様々な所で見かける日本庭園ですが、時代や庭が造られた場所によって、意味合いやデザインは様々で、それぞれの庭ごとに異なる見どころがあります。
『日本庭園』の少し変わった例としては、『鬼門除け』も挙げられます。京都などの古くからの町では、ビルの敷地の鬼門(北東方向)に空きスペースを設ける風習が見られますが、これら鬼門除けは枯山水的意匠で作成されることが多くあります。
また、カフェやホテルなどでは足を踏み入れることを想定せず、ガラスの向こうから眺めることを目的としたものも近年多く見られるようになりました。
日本庭園は誕生以来現在まで、時代に合わせて様々な進化をしてきています。大名や貴族の庭園から路地裏の鬼門除けまで、様々な場所でみられる日本庭園の魅力がこの記事から少しでも伝わりましたら嬉しいです。
日本庭園の代表例については下記記事で書いていますので、こちらもあわせてご参照ください。
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