目次
1.はじめにー気多大社の概要ー
この記事では石川県羽咋市にある「氣多大社(けたたいしゃ)」について紹介します。
境内の見どころはもちろん、由来や歴史についても解説します。
気多大社のある石川県羽咋市は、石川県の県庁所在地で多くの観光客で賑わう金沢市と、和倉温泉で知られる七尾市との中間に位置しており、金沢市からは車や鉄道で40分ほどで向かうことができます。
羽咋市、及び隣接する羽咋郡の2町は「口能登」地域と呼ばれ、能登半島の入り口に当たります。この地に鎮座する気多大社は、能登を代表する神社として知られ、『能登国一宮』として古くから崇敬を受けてきました。
気多大社の祭神は、古事記や日本書紀に国津神の代表として登場する『大国主命(おおくにぬしのみこと)』です。出雲大社の主祭神として知られる大国主は、日本国中様々な地域に足跡を残しており、中でも能登地域をはじめとする北陸地方には多くの伝承が残されています。
さらに、この記事で紹介している気多大社以外にも、同名の神社は兵庫県北部や石川県の加賀地域、岐阜県飛騨地域や富山、新潟などにも残されており、古来日本海を介して出雲から北陸までの地域が強く繋がりを持っていたことを感じさせます。
気多大社では様々な祭礼が行われていますが、中でも毎年年末に行われる『鵜祭』と、例年3月の中旬から下旬にかけて行われる『平国祭(へいこくさい、一般には“おいで祭”とも呼ばれる)』は特徴的なものです。
平国祭は祭神の大国主命が能登を平定した故事にちなんだ祭礼として知られており、神馬を先頭に気多大社を出発した50人ほどの一団が、5泊6日の行程をかけて能登半島を巡行していきます。
この祭礼は能登に春の訪れを告げるものとして親しまれており、特に一団が巡行する地域では「寒さも気多の“おいで”まで」といわれています。
2.由来と歴史
この章では気多大社の由来と歴史について、神社に伝わる話(由緒)を中心に説明していきます。
気多神社の祭神である大国主神は、気多神社以外にも出雲大社など様々な場所で祀られており、多くの別名と地域ごとの様々な伝承を持つことが特徴の神です。
神話などの中で大国主は10を超える別名で呼ばれており、それらは大国主の多様な神話や神徳を表しています。
「大国主神」という名からは多くの国を治める神であること、「八千矛神(やちほこのかみ)」という名からは多くの武力を持つ神であること、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」という名からは地上の国を造った神であることなどが伺え、農業や産業開発、商売繁盛など、多くの神徳を有する神として信仰されてきました。
多くの伝承、多くの別名と共に、大国主は多くの妻子を持つ神でもあり、記紀神話中には6人以上の女神との間に180柱の御子神をもうけたことが記されています。
この記述が注目されたのか、江戸時代前期貞享3(1686)年刊行の『好色五人女』からは出雲大社で縁結びを祈願するとの記述が見られるようになり、この後徐々に大国主は縁結びの神としての性格も持っていったと考えられます。
気多神社に伝わる資料『気多神社縁起』では、日本の第8代天皇である孝元天皇の時代、大国主命が300余りの神々を率いて来航し、周辺に巣くう魔物や大蛇を退治して海路を開いたとの話が伝わっています。
これ以外にも神社には異伝が多く伝わっており、神社の詳しい創建時期は定かではありません。
異伝のひとつには神社が一度七尾に祀られたことがあると伝えられており、その由来から七尾には『気多本宮』が祀られ、平国祭も七尾を往路の目的地としています。
気多大社が中央の記録に初めて登場するのは、天平13(741)年のことです。
この年から天平勝宝8(757)年までの16年間、一時能登国は越中国(現在の富山県)に合併されていましたが、天平13年に越中国司(現代の県知事)として赴任した大伴家持(おおとものやかもち)が当社を訪れて詠んだ歌が『万葉集』に掲載されています。
その後には『続日本紀』や『日本三大実録』といった中央の歴史書に社名が見られ、歴史書の記述からは平安時代の30年ほどの間に気多大社の神位が上昇していることが伺えます。
また、延長5(927)年に成立した『延喜式』神名帳には気多大社が現在の石川県域の中で唯一の名神大社(臨時の国家祭祀を行う神社)として記載されているなど、気多大社は平安時代に朝廷より厚い崇敬を受けていました。
さらに時代が下ると、気多大社は「能登国一宮」とされ、能登を治めた武士達からも崇敬を集めるようになります。
室町時代を通して能登地域を治めた能登守護畠山氏からは境内摂社社殿の寄進などを受けていることが確認できるほか、江戸時代に能登を領地とした前田家からは藩のお抱えの大工達によって、本殿や神庫など現在境内に残る多くの建物が造営されています。
また、前田家によって神社奥にある「入らずの森」は神域として保護されるようになり、現在まで原生的な暖地性の常緑広葉樹林を残しています。
昭和58(1983)年、昭和天皇が全国植樹祭で石川県を訪れた際には気多大社へも御幸されましたが、その際に昭和天皇は入らずの森へ足を踏み入れいたく感動され、「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるを見たり」との御製を詠まれています。
近年においては森に立ち入ったのは神職と森の管理者以外には昭和天皇のみという状態でしたが、令和元(2019)年には令和改元記念として一ヶ月間限定で一般公開がされることとなり、広く話題を呼びました。
3.境内のみどころ
この章では気多大社の見どころについていくつかご紹介します。
①拝殿
気多大社の拝殿は承応2~3年(1653~54)に、大工の山上善右衛門によって造営されたと伝わるもので、国の重要文化財に指定されている建物です。
山上善右衛門は第二代加賀藩主の前田利常に仕え、加賀藩の名工と呼ばれていた人物で、気多大社拝殿などのほかに、羽咋市内の妙成寺や、富山県高岡市の瑞龍寺など、現在まで残る多くの名建築を北陸各地に残しています。
②入らずの森
気多大社の社地の奥にある原生の森です。
日本で珍しくなった常緑広葉樹林で、森の中では常緑樹が枯死倒壊によって育ったエノキの木の下に、暗い場所で生育する樹木が育つ、樹木の遷移を見ることができます。
気多大社のお守りには「氣」という字が記されたものが多くありますが、これらのお守りには入らずの森の「氣」が込められています。
③縁結び
大国主を祀る気多神社は、祭神の神徳から縁結びのご利益がある神社として知られています。
毎月1日に行われる「ついたち結び」、8月13、14日に行われる「心むすび大祭」には、地元能登地域だけでなく、関東地方などからの参拝者も多く見られるようです。
気多大社はホームページやYoutube、『CanCam』などの女性誌で積極的な広報活動を行っており、これらが良縁を求める参拝者の増加に繋がっているともいわれます。
4.おわりにー参拝のポイントー
ここまで気多大社について説明してきました。
気多大社は能登国一宮として信仰され、神話上の様々なつながりを感じられる歴史的な神社でありながらも、今なお幅広い層の人々から縁結びの神社として信仰されていることが特徴です。
3月18日から6日間の日程で行われる平国祭は特に神社の歴史を感じられる祭礼で、大規模な渡御祭として、全国的に注目されるものです。
風光明媚な口能登地域に初春をもたらす平国祭も行われる気多大社。縁結びの祈願と良い気をいただきに訪れてみるのはどうでしょうか。
名称 | 氣田大社(けたたいしゃ) |
住所 | 〒925-0003 石川県羽咋市寺家町ク1-1 |
電話番号 | 0767-22-0602 |
参拝時間 | 8:30~16:30 |
参拝の所要時間 | おおよそ20分 |
主なアクセス方法 | 羽咋駅などから北鉄能登バス運行あり |
参拝料 | なし |
関連サイト | https://keta.jp/ |