丹生都比売神社を参拝する(和歌山県かつらぎ町)

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1.はじめにー丹生都比売神社の概要ー

丹生都比売神社本殿
©岩本まさき

この記事では和歌山県北東部、かつらぎ町にある「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」について紹介します。
境内の見どころはもちろん、神社の由来と歴史についても解説します。

丹生都比売神社の境内は、和歌山市から紀ノ川を奈良県方面へ遡り、そこから高野山方面へ山道を登る途中の天野盆地にあります。
高野山への山道は多くの区間が鬱蒼とした木立に覆われています。
しかし、山道が天野に差し掛かると視界が開け、一転してのどかな田園風景が目の前に広がるようになります。
この風景の美しさを、随筆家の白洲正子氏は「天の一廓に開けた夢の園」と表現し、「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」と評しています。

その田園風景の一角に、奥行きのある境内に朱塗りの大鳥居と太鼓橋、楼門を有する丹生都比売神社があります。
紀伊国一之宮であり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にもなっている神社ですが、鉄道駅から離れた立地の影響もあってか、高野山への道中に立ち寄る方は必ずしも多くはありません。

しかし、歴史的には高野山との関係性が非常に深い神社でもあり、祭神の一柱には空海が高野山を開く際に高野山へ彼を導き、高野山の土地を与えたとの逸話が残ります。
この逸話から神社は高野山の守り神として認知され、現在でも高野山の僧侶が参拝する様子が見られるなど、境内には今なお神仏習合の色が残されています。

特徴的な神社の名前は丹(辰砂(しんしゃ):水銀の原料となる赤い鉱石)の採掘に由来するものです。
先述した丹生の神が空海に高野山の土地を与えたというエピソードも、天野などに住んでいた丹の採掘に携わる人々が、空海を支援したという意味ではないかとも言われています。

神社第一殿に祀られる主祭神は丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)で、第二殿の高野御子大神(たかのみこのおおかみ)は御子神として伝わっています。これら二柱の他に、祀られている二柱の神を合わせて「四所明神」とも呼ばれることがあります。

特に主祭神の丹生都比売神が丹に関わる神であることから、不老長寿や魔除けのご利益があるとして信仰されるほか、紀ノ川の水源地に坐す神、水神としての信仰も集めています。

2.由来と歴史

丹生都比売神社 社紋
©岩本まさき

この章では丹生都比売神社の由来と歴史について、神社に伝わる伝説や高野山との関係にも触れながら説明していきます。

丹生都比売神社の詳細な創建の年代は現時点ではっきりとはしていません。しかし、奈良時代初期に成立したと考えられる『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』には、丹生都比売大神と同一と考えられる神名が記されています。
また、現在地近くにその神が祀られていたことも記録されていることから、神社は奈良時代以前から祀られていたと考えられています。

そこから少し時代が下った平安時代初期の延暦23(803)年、後に高野山を開山する空海は長期留学僧として中国唐に渡っていました。
日本からの出国時には全く無名の僧だった空海でしたが、密教の第七祖と呼ばれる恵果(けいか)に師事し、わずか半年程で密教奥義を伝授されます。
空海は本来なら20年程度の留学期間をわずか2年で終了させると、多くの密教経典や法具を携えて日本へ帰国します。

大同元(806)年、空海は日本へ帰国、大同5(810)年には嵯峨天皇の指示のもと鎮護国家の祈祷を行うなどして朝廷との関係性を強めると、弘仁7(816)年には高野山一帯の土地を嵯峨天皇より下賜されたことが文書からわかります。空海が高野山を選んだ理由は、若いころに高野山一帯で修行をした経験があるからと考えられています。

一方で高野山や丹生都比売神社に伝わる縁起は、上記とは少し異なる内容となっています。平安時代中期に成立したと考えられている『金剛峯寺建立修行縁起(こんごうぶじこんりゅうしゅぎょうえんぎ)』などの説話集には以下のエピソードが見られます。

唐からの帰国後、空海が修行に適した場所を探して歩いていると、空海の元に白と黒の2頭の犬を連れた狩人が現れます。狩人は犬を放し、空海に犬へついていくように伝えます。
言われるままに犬についていった空海は紀伊国天野へたどり着き、そこで土地の神である丹生明神に出会い、高野山を譲り受けます。

高野山奥の院
©岩本まさき

この逸話に出てくる丹生明神は、丹生都比売神社に祀られている主祭神の丹生都比売大神であり、犬を連れた猟師はその御子神である高野御子大神(狩場明神とも呼称されます)を指しています。
逸話では神聖な山に異国の存在である仏を祀るに当たって、地元の山の神の許可を取ったことが示されていると考えられ、このエピソードは以降様々な説話集にも採用されていきます。
平安時代末期に成立したと考えられる『今昔物語集』にもこのエピソードが採用されており、この頃までには丹生明神が空海に高野山を譲る話は一般化していました。

説話から丹生都比売神社は高野山の開創に関わる神社として認知され、高野山との関係性を強めていきました。平安時代後期までには丹生都比売神社は高野山へ帰属していたと考えられます。

以降丹生都比売神社は高野山と一体として信仰されるようになりました。丹生都比売神社境内には仏教系の堂塔も多く築かれていったほか、平安時代末期に高野山壇上伽藍が落雷で焼失した際には、高野山の仮所が丹生都比売神社内に置かれたと伝わっています。

丹生都比売神社
©廣畑智巳

この頃から高野山は朝廷から武士階級に至るまで多くの崇敬を集めるようになり、山内には彼らの寄進による堂宇建立も進みました。

特に鎌倉幕府からの支援は厚く、特にその中でも鎌倉幕府初代将軍の妻である北条政子は高野山に強く帰依した人物として知られています。彼女は山内に頼朝を供養する堂宇を建立したほか、丹生都比売神社には社殿の建立を含む多額の寄進を行っています。

政子が高野山に支援を行った時期は三代将軍である実朝が凶刃に倒れた後の時期に当たります。
一般に頼朝の息子としては正妻の政子が産み、2代・3代将軍にそれぞれ就任した頼家と実朝の兄弟が知られますが、実はもう一人の兄弟として、庶子で三男の『貞暁(ていぎょう)』が存在しています。

貞暁は頼朝に仕えていた侍女との間に生まれた子であり、政子の嫉妬を恐れた周囲によって誕生から7歳まで人目を忍んで育てられます。7歳の歳に京都仁和寺の僧に伴われて出家後修行を重ね、やがて高野山へ住持しています。
鎌倉の動揺を横目に修行に励む彼の姿は人々の崇敬を集めていたと伝わります。

北条政子も晩年には貞暁に帰依、源氏一族の菩提を弔うために厚い援助と出資を行っています。高野山に種々の堂宇を建立したほか、丹生都比売神社へも様々な影響を与えました。

これらの背景には1つのエピソードが伝わっています。江戸時代の享保年間に成立した『高野春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)』などには、実朝が3代将軍に就任した後に政子が貞暁の元を訪れた話が伝わっています。
貞暁は女人禁制で高野山に登れない政子に合わせて、丹生都比売神社で政子と面会、政子からは還俗して次期将軍になるように勧められるものの、その場で左目を短刀でえぐり出して拒否したといいます。

上記エピソードは原典が明らかでない伝説的なものではありますが、同時期以降より北条政子から高野山への寄進が手厚いものとなっており、源氏の血族である貞暁が高野山にあったことは、その後鎌倉時代を通して鎌倉幕府と高野山、丹生都比売神社の関係性を強めることに繋がりました。

高野山町石
©岩本まさき
麓から高野山に至るまでの道には、鎌倉幕府によって上記のような町石が一定距離ごとに設置されました。

鎌倉幕府との関係を強めた丹生都比売神社は、この時期に幕府へ様々な託宣を下しています。
平安時代初期には貞暁が師事した高野山の僧侶を通じて北条政子に託宣が下され、それまでは丹生都比売大神と高野御子大神の2柱のみを祀っていた神社に、丹生都比売大神の「旧友」であるとして、大食都比売大神(気比明神)、市杵島比売大神(厳島明神)の二柱が勧請されています。

さらに鎌倉時代中期、「元寇」の弘安の役時にも丹生都比売神社から鎌倉幕府へ託宣が下されたというエピソードが『高野春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)』などに記載されています。

弘安4(1281)年4月、丹生都比売神社の気比明神より託宣があり、「諸国の神々による話し合いの結果、丹生都比売大神が神々の先陣を切る。ついては武具を準備せよ。4月28日の出陣時には瑞兆がある」との内容だったといいます。
そして4月28日の夜、社殿が鳴動し、赤い光が輝く中で神社の森に多くいた烏が一斉に西の方角へ飛び去っていき、「6、7月中には我が国は安全となるだろう」との託宣が下りたようです。

輪橋 夕
©廣畑智巳

上記エピソードについても伝説的な要素は拭いきれませんが、この知らせに鎌倉幕府は喜んだといい、実際に7月30日夜に元軍が台風によって壊滅すると、神威によって元軍を退散させた神として丹生都比売神社は人々からの崇敬を強めました。
この他に奈良時代成立の『播磨国風土記』には、神功皇后が朝鮮半島に出兵した際にも丹生都比売大神が進軍を助けたことが伝わっており、元寇以前から軍神として認知されていたと考えられます。

元寇後の時期に寄進された国宝の太刀と拵えなども現存しており、神社が当時の権力者たちから庇護を受けていたことは間違いがありません。
その後も中世を通して丹生都比売神社は権勢を誇り、その繁栄は安土桃山時代に豊臣秀吉の太閤検地によって社領の多くを没収されるまで続きました。

3.境内のみどころ

この章では丹生都比売神社の見どころについていくつかご紹介します。

①輪橋(りんきょう)

丹生都比売神社 橋
©岩本まさき

丹生都比売神社のシンボルであり、「太鼓橋」という名でも呼ばれる反りあがった形が特徴の朱塗りの橋です。
現在の橋は慶長年間、豊臣秀𠮷の側室である淀殿の寄進によって建立されたと伝わっています。
橋が架かる鏡池には社がある小島があり、人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼(やおびくに)が、小島に鏡を納めたとの伝承が伝わっています。

②楼門

丹生都比売神社 楼門
©岩本まさき

戦国時代初期に造営されたと考えられ、重要文化財の指定を受けている建物です。本殿前に聳える、丹塗り檜皮葺(ひわだぶき)の堂々とした姿は迫力があります。

③本殿

春日造、檜皮葺の社殿が四殿並ぶ特徴的な本殿です。現在の社殿のうち第二殿と第四殿は室町時代に造替されたもので、四殿が合わせて重要文化財に指定されています。
この本殿の姿から、丹生都比売神社は四柱の神々が並ぶ「四社明神」の呼び名で親しまれていきました。

4.おわりにー参拝のポイントー

丹生都比売神社 鳥居
©岩本まさき

ここまで丹生都比売神社について説明しました。
丹生都比売神社は長い歴史を持っており、境内には神社が辿った歴史を示す遺構が多く残されています。
境内入り口にある両部鳥居は密教との神仏習合的要素を強く残し、境内に残る石碑には大峯へ赴く修験者たちが立てたものが数多く含まれています。丹生都比売神社を訪れる際は古代から中世、そして現在まで続く神社が辿った歴史に思いを馳せてみましょう。


また、一帯の広い範囲、多くのスポットが世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』に登録されている点には注目です。
特に高野山の政所跡であり、女人高野として知られる『慈尊院(じそんいん)』や、高野山へつながる登山道の入り口にある『丹生官省符神社(にうかんしょうぶ)』、『丹生酒殿神社(にうさかどの)』といった付近の社寺も高野山の信仰に関係し、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成しているため、あわせての参拝もおススメです。

    名称丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
    住所〒649-7141
    和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
    電話番号0736-26-0102
    参拝時間8:45~16:30
    参拝の所要時間おおよそ20分
    主なアクセス方法JR笠田駅よりかつらぎ町コミュニティバス運行あり
    参拝料なし
    関連サイトhttps://niutsuhime.or.jp/
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