長勝寺を参拝する(青森県弘前市)

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1.はじめにー長勝寺の概要ー

長勝寺三門
©弘前市観光協会

この記事では青森県西部、津軽地域の中心都市弘前を代表する大寺院のひとつ、「太平山 長勝寺(たいへいざん ちょうしょうじ)」について紹介します。
境内の見どころはもちろん、お寺の由来と歴史についても解説します。

長勝寺は弘前市街の南東部に位置しています。津軽藩主である津軽(大浦)氏の菩提寺であり、それまでは津軽藩領の別の場所にあったものが、江戸時代初期に弘前に津軽藩庁が置かれる際に現在地へ移転してきた歴史を持っています。

弘前はまち全体を濠や土塁で囲み、城下町全体を要塞とする『惣構え(そうがまえ)』の都市として二代藩主信牧(のぶひら)の代につくられたまちで、中でも長勝寺は弘前城の南東部、裏鬼門方向の守備の要として考えられました。

長勝寺の周辺は「長勝寺構え」と呼ばれる弘前城の曲輪(くるわ、防御区画のこと)のひとつとして設計されており、周辺には現在でも土塁や桝形といった防衛陣地の跡地が残されています。
一帯には32の曹洞宗寺院(長勝寺を含めると33)があり、一帯は「禅林街(ぜんりんがい)」と呼ばれて親しまれています。道に沿ってお寺と杉並木が並ぶ光景は圧巻で、弘前の観光名所として親しまれていますが、これらのお寺も有事には防衛拠点とするためにこの場所へ集められたもので す。

長勝寺そのものも魅力が多く、弘前の中心市街から禅林街へアクセスすると、道の最奥に見える長勝寺の大きな三門にまず驚きます。
江戸時代前期の禅宗様式で建てられた豪壮な門をくぐり境内へ進むと、本堂や庫裡(くり)といった建物が見えてきます。
庫裡は僧侶たちの生活空間として使用される建物で、長勝寺の庫裡は津軽氏がかつて拠点としていた大浦城の台所を移築したとも伝わる歴史のあるものです。
また、本堂も曹洞宗のものとして古い様式を残しており、全国的にも珍しいものです。

そして注目は本堂の左側奥にある御影堂(みえいどう)で、初代藩主である津軽為信(つがるためのぶ)の木造を安置する厨子で、極彩色がそのままに残っています。
厨子内にある津軽為信の木造は「髭殿」と呼ばれた生前の姿を写しており、衣冠束帯姿でありながらも表情は柔らかく、市内の銅像やねぷたで見られる険しさや勢いのある姿とのギャップに驚きます。

2.由来と歴史

禅林街
©弘前市

この章では長勝寺と、長勝寺を創建した津軽(大浦)氏の歴史について説明していきます。

長勝寺は享禄元(1528)年、大浦氏の家祖である大浦光信の菩提を弔うためにその子盛信が建立した寺院です。
大浦氏は南部氏と縁戚関係があり、元々は岩手県久慈を領していたとされますが、光信の代に領土を接する安東氏への西の抑えとして種ヶ沢城(青森県鯵ヶ沢町)に配置、以後大浦氏を名乗っています。

大浦氏はその後南部氏の配下として周辺勢力と抗争を続けていき、勢力が現在の弘前市街に及ぶようになると、長勝寺も種ヶ沢城から大浦城(弘前市五代地区)に移っています。

大浦氏の大幅な勢力伸張は光信から数えて5代目の当主にあたる大浦為信の代のことです。為信はそれまで従っていた南部氏を突如裏切り、南部氏が津軽地方を治める拠点であった石川城を攻略、城主を自害に追い込みます。
その後は南部氏の客将で、南北朝時代以来の貴種であった浪岡北畠氏を滅ぼすなどして勢力を拡大していきました。

この時代は豊臣秀吉による天下統一が目前に迫った頃で、東北の諸大名は小田原攻城戦へ赴く秀吉に謁見、降伏し所領の安堵を受ける必要がありました。
伊達政宗が白装束姿で秀吉に謁見した逸話が有名ですが、大浦為信や南部氏も家の存続のため、豊臣政権内での自家のイメージを良くしながら一刻も早く謁見する必要がありました。

長勝寺本堂

大浦為信も秀吉への謁見のために度々南下を図りましたが、岩手側を南部氏、秋田側を安東氏に囲まれていたことから失敗続きでした。
為信が謁見に成功したのは安東氏と大浦氏間で和睦が成立した天正17(1589)年のことです。石田三成を介して秀吉に謁見、鷹を献上した為信は秀吉に大名として認められ、その後の津軽藩立藩へと続いていきます。
一方で大浦氏と南部氏の緊張した関係はこの後も江戸時代を通して続き、幕末には軍事衝突にまで発展しています。

天正18(1590)年、本領を安堵された為信は姓を大浦から津軽に改め、以後豊臣政権へ関与していきます。
朝鮮出兵時には肥前名護屋城まで出兵したことが記録に残っているほか、伏見城の普請にも協力、特に謁見の際に口添えされた石田三成と良好な関係を持っていたと考えられています。
周辺の立地からその後の関ケ原の戦いに津軽氏は東軍として参戦しましたが、石田三成の子を領内に匿い、その後築城される弘前城内にひっそりと豊臣秀吉の木造が祀られていたことなどからは、津軽氏を大名に取り立ててくれた豊臣政権に対する津軽氏の恩義の心が感じられます。
関ケ原の戦い後数年で為信が亡くなると、二代藩主には三男の信牧が就任しました。信牧はそれまでの居城の防御力の低さを問題視し、それまで「鷹岡・高岡」と呼ばれていた場所に新たな城を築きはじめます。

©弘前市観光協会

慶長16(1611)年に鷹岡城(後に弘前城と改名)が完成すると藩政機能も移り、時を同じくして長勝寺も現在の場所へ移転しています。
その後長勝寺は津軽氏の菩提寺として崇敬され、境内には初代藩主為信が御影堂に祀られているほか、霊屋にはそれぞれに初代正室、二代藩主とその正室、三代・六代藩主が、霊屋向かいの五輪の塔にも歴代の藩主がそれぞれ葬られています。

藩主家の菩提寺として江戸時代を通して大切にされてきた長勝寺はその後の廃藩置県などの影響を受けて一時衰微しましたが、戦後からは藩主家以外の人々も檀家として受け入れるようになり、現在では広く一般の檀信徒に開かれたお寺として親しまれています。

3.境内のみどころ

この章では長勝寺とその周辺の見どころについていくつかご紹介します。

①禅林街

禅林街
©岩本まさき

長勝寺の三門に向けて真っすぐに伸びる禅林街は、弘前に来た際にぜひ立ち寄ってもらいたい観光スポットのひとつです。
曹洞宗寺院が道の両側、杉並木の中に並ぶ様子は圧巻で、同一宗派のお寺が一か所にここまで集まっているのは国内で他に例がありません。
夜間にはライトアップもされており、幻想的な雰囲気を楽しむことができます。

②三門

長勝寺三門
©弘前市観光協会

長勝寺の三門は禅林街の突き当たりにあり、16mの高さも相まって存在感のある建物です。
寛永6(1629)年に二代藩主信牧によって建立された三間一戸の楼門で、同時期に建立された岩木山神社と造りが似ていることから、同じ大工の手によるものとも推定されています。

全体に禅宗の様式を用いながらも、全ての柱が上から下まで通し柱となっているなど特異な点が見られます。
随所に彫刻や彩色も残っており、江戸時代前期の禅宗建築として貴重な遺構といえます。

③御影堂

藩主達の霊を祀る霊屋と一体とされる厨子で、藩祖である津軽為信の木造を祀っています。
三門と同じ寛永6(1629)年に二代藩主信牧によって建立されたとされ、金泥や金箔が施され、漆塗りに極彩色が施された厨子は圧巻で、藩主為信の木造と共に拝したいものです。

4.おわりにー参拝のポイントー

弘前城からの景色
©岩本まさき

ここまで長勝寺について説明しました。
惣構えの城下町として整備された弘前には、現在もその遺構が色濃く残っていることが特徴です。
今回記事の中で紹介した禅林街(長勝寺構)はもちろん、城の南東部方向には新寺構(しんでらがまえ)があり、こちらもアップダウンのある地形とお寺を集めることによって城の防衛拠点となっています。

弘前には多くの建築が残り、中でも豊富な近代建築を楽しめるまちですが、江戸時代の建築や遺構も多く現存しています。
長勝寺と禅林街を訪問したあとは、最勝院や袋宮寺、革秀寺など市街に今も残る古刹・名刹を詣でてみたり、周辺の城郭遺構を探してみるのもおススメです。

ブログ内では弘前の近代建築を中心に名所をモデルコース形式で紹介している記事も掲載していますので、そちらもあわせてご参照ください。

名称太平山 長勝寺(たいへいざん ちょうしょうじ)
住所〒036-8273
青森県弘前市西茂森1丁目23−8
電話番号0172-32-0813
参拝時間9:00~16:00
参拝の所要時間おおむね30分
主なアクセス方法JR弘前駅からバス運行あり
参拝料なし
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岩本まさき

岩本まさき

1993年兵庫県西宮市生まれ。奈良大学文学部地理学科卒業後、営業職を中心に勤務。
2022年に旅行会社へ転職後は、ツアーへの添乗や旅行系のライターとして務め、個人・少人数向けツアーも多数企画しています。
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