目次
1.はじめにー今熊野観音寺の概要ー
この記事では京都市の東南部にある「新那智山 今熊野観音寺(しんなちさん いまくまのかんのんじ)」について紹介します。
境内の見どころはもちろん、お寺の由来と歴史についても解説します。
今熊野観音寺は京都市にあるお寺です。周辺は行政的には東山区にあたり、同じ区内には清水寺や八坂神社、三十三間堂や東福寺など、京都観光で立ち寄ることの多い知名度の高い寺社も集中しています。
今熊野観音寺が位置する地域はその東山区の中でも南東部にあり、境内は東山に抱かれるように位置しています。
京都市街に隣接しながらも山寺の雰囲気のあるお寺で、特に秋の紅葉の時期には境内から参道までもが赤や黄色に覆われます。
「今熊野」という寺名、山号の「新那智山」はそれぞれが和歌山県南部の熊野・那智に由来するもので、歴史的に熊野・那智と深い関わりを持っています。
2.由来と歴史
この章では今熊野観音寺の由来と歴史について、お寺に伝わる話(縁起)を中心に説明していきます。
今熊野観音寺は平安時代初期の大同2(807)年、真言宗の開祖である空海によって創建されたと伝わっています。
空海が現在の境内に当たる場所の麓を訪れた際、東山の山中に光明が差し、瑞雲がたなびいているのを不思議に思って光の元へ向かうと、その場に熊野の神を名乗る白髪の老人が現れ、空海に十一面観音菩薩像と宝印を授けて消えていったという話が伝わります。
空海は自ら十一面観音像を刻み、熊野の神から授けられた観音像を胎内に納めました。この観音像をお祀りしたお堂が今熊野観音寺の創建の由来とされています。
その後、観音寺は平安時代を通して皇族や貴族から崇敬を集め、弘仁3(812)年には嵯峨天皇によって諸堂の造営がされたことが記録に残るほか、左大臣藤原緒嗣の発願によって伽藍の造営が図られ、その子藤原春津の代に完成していることがわかっています。
お寺はその後、平安時代を通して貴族らの信仰を集めてきました。
そして、平安時代後期を過ぎるころになると人々の間に末法思想が広まっていきます。釈迦の死後1,000年が経つと正しい仏教の考え方や行いが忘れられて世が乱れるという世紀末的な考え方で、日本においては永承7(1052)年以降末法に入ると考えられました。
当時は藤原氏の摂関政治の衰えが見えている時期にあたり、東北地方では前九年合戦が勃発するなど武家勢力が台頭して、治安も悪化していました。末法思想と現実世界の情勢が一致したことで人々の不安は高まり、仏に祈って死後に浄土に生まれ変わろうとする『浄土信仰』が武士や貴族から民衆の間にまで広まっていきます。
浄土信仰を感じられる建物としては宇治の平等院鳳凰堂などが挙げられるほか、岩手県平泉の世界遺産『平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群』はまさしくこの時代の浄土信仰を象徴する世界遺産といえます。
一方の熊野地域は、日本神話の女神であるイザナミが葬られた場所でもあるなど、元々冥界、黄泉の国の入り口として信仰されてきた歴史がありましたが、こうした浄土信仰の高まりと共に、海の向こうの浄土を思う、仏国浄土の入り口としても信じられるようになっていきました。
熊野の神々は元々は川や滝、岩などを信仰する自然崇拝が元であったと考えられていますが、この時期からは仏との習合も進み、熊野三山のうち本宮の神は阿弥陀如来に、那智の神は千手観音に、速玉の神は薬師如来と同じものと考えられました。
これら熊野信仰の高まりの中で、今熊野観音寺もその影響を受けていったと考えられます。同時期には観音寺は熊野信仰の拠点として栄え、それまでは異なっていた寺名も「東山観音寺」と呼ばれるようになりました。
末法思想が広まった平安時代後期には、多くの上皇・法皇や貴族が浄土への信仰から熊野の地を目指しましたが、中でも後白河法皇は熱心に熊野三山を信仰したことで知られており、歴代でも最多33回の熊野詣を行っています。
しかし、京都から船で大阪に出て、紀伊半島の南端を目指す熊野詣は往復約600km、1回あたり20日~1ヶ月の時間を要し、より身近に熊野信仰ができる場所が求められました。
ここで注目されたのが既に熊野信仰の拠点となり、当時「今熊野」とも呼ばれていた東山観音寺と周辺一帯の地域でした。後白河法皇は一帯を「京の今の熊野」として整備していきます。
東山観音寺へは新たに熊野権現が勧請され、さらに「新那智山」との山号が後白河法皇から授けられることで、京の熊野信仰の拠点としてより隆盛していきました。
また、観音寺から麓の場所には『新熊野神社(いまくまのじんじゃ)』が勧請されました。
新熊野神社周辺には熊野本宮大社周辺の地形がコピーされていたと伝わるほか、社殿も熊野の土砂材木を運んで建立されたと伝わり、法皇の熊野信仰への熱意が伝わってきます。
また後白河法皇と今熊野観音寺についてはもう一つの逸話が伝えられています。
後白河法皇は日夜片頭痛に悩まされていたと伝わり、そうした中で頭痛に霊験があるとされた今熊野観音寺に祈願していました。するとその夜枕元に観音が現れ、痛む頭に光を差しかけるとたちまちに法皇の頭痛は癒えてしまいました。
似た逸話は、こちらも後白河法皇に縁のある蓮華王院三十三間堂にも伝わっています。
この逸話から、今熊野の観音様は枕元や夢の中に現れる仏様として知られるようになりました。
頭痛だけでなく頭に関することに霊験があるとされ、現在では智慧授かりや学業成就、ぼけ封じの霊験もあるとして信仰されています。
3.境内のみどころ
この章では今熊野観音寺の見どころについていくつかご紹介します。
①鳥居橋
今熊野観音寺を参拝する際に通る、参道の途中に位置する真っ赤な橋です。観音寺の
前には「今熊野川」が流れており、この鳥居橋で谷川を渡って境内へアクセスします。
「鳥居橋」という名前は、古くはこの橋の付近に熊野権現の社があったことに由来するともいわれます。
秋期、橋の周辺では紅葉が美しく見られることが知られており、例年多くの人々で賑わいます。
橋の手前は急坂となっており、橋の上は道幅が狭くなっています。今熊野観音寺へは自動車でのアクセスが可能ですが、駐車場は鳥居橋の先にあるため、運転には十分に注意してください。
②本堂
かつて空海がお寺を創建する際、熊野権現と出会ったという場所の上に建つお堂です。お堂の中には空海が熊野権現より賜った観音像を胎内仏とした観音像が納められています。
本尊の観音像は秘仏ですが、ほぼ同じ造形のお前立仏を直接拝むことができます。
③枕宝布(枕カバー)
後白河法皇の頭痛を治したことから、今熊野観音は頭痛封じの他、特に頭に関することにご利益があると信仰されています。
それを表すのが授与所でお授けいただくことができる枕カバーで、頭痛封じ・ぼけ封じと智慧授け・学業成就の2種が用意されています。
ご参拝される方がご自身用にお受けするほか、お子さんやお孫さん用にお受けされているのも見受けます。
4.おわりにー参拝のポイントー
ここまで今熊野観音寺について説明しました。
西国三十三所巡礼の札所寺院であり、京都駅からも近い場所にあるお寺ですが、秋の紅葉の時期を除けば、境内は観光客で溢れるということがあまりなく、穴場的な魅力のあるお寺です。
今熊野観音寺には隣接して泉涌寺や雲龍院、少し歩けば東福寺にもアクセスができる立地のため、周辺のお寺を巡拝するというのも良いかと思います。
名称 | 新那智山 今熊野観音寺(しんなちさん いまくまのかんのんじ) |
住所 | 〒605-0977 京都府京都市東山区泉涌寺山内町32 |
電話番号 | 075-561-5511 |
参拝時間 | 8:00~17:00 |
参拝の所要時間 | おおむね30分 |
主なアクセス方法 | 各線東福寺駅から徒歩20分 |
参拝料 | 無料 |
関連するサイト | https://www.kannon.jp/ |