目次
1.はじめにー紀伊山地の霊場と参詣道の魅力や構成資産ー
この記事では、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」の全体像について紹介します。
世界遺産に認定された理由と、点在する構成資産のエリアごとの特徴について解説しており、具体的な構成資産については別の記事で解説していきますので、そちらを参照してください。
紀伊山地の霊場と参詣道は、平成14(2004)年にユネスコの世界文化遺産に登録され、国内では「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に続き12例目の世界遺産になります。
構成資産は和歌山県、奈良県、三重県にまたがっており、合計で23の構成資産が存在します。登録されている資産には、独自の信仰をもとに築かれた神社仏閣と、それらを訪問するための巡礼道である参詣道が含まれています。加えて、信仰において重要な原始林や滝などの景観も対象となっています。
2.紀伊山地に伝わる信仰の歴史
国土の7割が山林に覆われている日本では、古くから山は聖なる場所とされ、山岳信仰の崇拝の対象となってきました。
和歌山県から奈良県中南部、そして三重県にまたがる紀伊山地の山々もそのひとつとして古くから信仰され、6世紀に仏教が伝来する以前から山林修行者が活動していたと考えられています。
仏教の伝来以後は、仏教の修行者達も紀伊山地の山々を現世の浄土として考えるようになり、紀伊山地は彼ら仏教修行者たちの修行の場として用いられました。
特に高野山は紀伊山地の山々に囲まれながらも山上に平地が開けており、地形が仏教の象徴である蓮華の形に似ていると考えられたこともあり、真言宗の開祖である弘法大師空海によって霊場としての整備がされていきました。
こうした歴史の中で、紀伊山地に元々あった山岳信仰と日本古来の神々への信仰、そして仏教は混ざり合って信仰されていくようになります。
高野山に空海が寺を開く際には地元の神が、空海に土地を与えたとの話が伝わっているほか、熊野三山の神々は「熊野権現(くまのごんげん)」と呼ばれて信仰されました。
「権現」とは仏教の仏が日本で人々を救うために、仮に取っている日本の神々の姿を指すものです。日本の神々が仏教に取り入れられると権現と呼ばれ、「熊野権現」のほか、「蔵王権現」や「愛宕権現」など多くの神々が権現として信仰されてきました。
10世紀以降の日本では、こうした神道と仏教が混ざり合った神仏習合思想が多く広まっていました。
この神仏習合の考え方と山岳信仰が混ざり合っていくなかで、日本独自の信仰である『修験道(しゅげんどう』も誕生します。修験道の修行者(修験者)は一般に「山伏(やまぶし)」と呼ばれ、各地の山々を駆けて修行を行いました。
修験道の創始者は7世紀の伝説的な人物である『役小角(えんのおづぬ)』とされています。奈良で誕生したとされる役小角は、奈良県と大阪府の県境にあたる葛城山脈などでの修行を経て、紀伊山地の大峯山系で修験道の本尊ともいわれる蔵王権現を悟ったとされており、こうした伝説から大峯山系は修験道の聖地として認知されていきました。
さらに、10~11世紀頃の日本では「末法思想」(釈迦の死後から年月が経ち、仏の教えが衰えることで世も末になるという思想)の考えが広まっていました。
この思想の影響から当時の人々の間には死後に極楽浄土に生まれ変わろうとする考えが広まっていましたが、京都の南の方角にあり、深い山々が海まで迫る紀伊山地は現世にある浄土として認知され、来世の救済と現世利益を求めて皇族や貴族たちが多く訪れることになりました。
こうした熊野地域への巡礼は、中世以降には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を目指す熊野詣として全国各地へ広がりを見せ、次第に庶民たちもこの地を訪れるようになりました。最盛期には多くの旅人が列をなしたことから「蟻の熊野詣」と言われています。
近代になると、明治元(1868)年の『神仏分離令』と明治39(1906)年の『神社合祀令』によって紀伊山地の神社は激減し、熊野詣は衰退しました。
同時期の明治5(1873)年には『修験禁止令』の発布によって修験道も著しく衰退しており、緩やかに混じりあいながら信仰されてきた紀伊山地の霊場は、この時期に大きな打撃を受けています。
そうした歴史の中でも参詣道は生活道路として機能して地域の人たちによって守られ続け、霊場も時代ごとに姿を変えながらも、多くが現在まで残されてきました。
3.世界遺産に登録された理由
この章では、紀伊山地の霊場と参詣道がどのように評価されて世界遺産に登録されたのかを解説します。
該当する評価基準
世界遺産の評価基準は10あり、世界遺産に認定されるには最低1つ以上の基準を満たす必要があります。紀伊山地の霊場と参詣道はこれらの基準のうち、以下の4つの基準を満たしたことで世界文化遺産に認定されました。
- 紀伊山地の文化的景観を呈する記念工作物群及び遺跡は、神道と仏教の融合による独特の所産であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を良く表している。(価値基準2)
- 紀伊山地の社寺の境内と関連する儀礼は、1,000年以上にもわたる日本の宗教文化の発展を示す希有な証拠である。(価値基準3)
- 紀伊山地は、日本各地の社寺建築に深い影響を与えた独特な寺院建築様式、神社建築様式が生まれる場となった。(価値基準4)
- 紀伊山地の遺跡群及び森林景観は、ともに、1,200年以上にもわたり辛抱強く維持され、また非常に良く記録が残されている聖なる山の伝統を映している。(価値基準6)
ここからはそれぞれの価値基準を満たした理由について説明していきます。
神道と仏教の融合
該当価値基準2:文化圏内での価値観の交流を示すものである)
世界遺産に登録された理由として、紀伊山地の霊場では日本国内で従来信じられていた神道と山岳信仰、6世紀に日本に伝わった仏教、そして陰陽道など、東アジアにおける様々な宗教や思想が融合、習合した独特の宗教文化の交流と発展が見られる点があげられます。
紀伊山地の霊場は真言密教の道場である高野山、神社である熊野三山、修験道の道場である吉野大峯から構成されていますが、これらはいずれも紀伊山地の山々を修行の場、信仰の根本とし、互いに影響を与え、融合した形で信仰されてきました。
1,000年以上の歴史を持つ日本の宗教文化
(該当価値基準3:文明の存在を伝承する物証として無二の存在である)
紀伊山地の霊場と参詣道では、1,000年以上に渡り、儀礼と祭祀、修行が為されてきました。紀伊山地は有史以前から山岳信仰の拠点として崇拝されてきたといわれており、その信仰を引き継ぐ形で3つの霊場は発展、現在まで信仰を伝えています。
これらの儀礼が1,000年以上途切れることなく行なわれてきたことで、機能や精神性に関する真実性も高い水準を維持していると判断されています。
独特な神社・寺院建築様式
(該当価値基準4:歴史上の重要な段階を物語る建築物である)
日本国内には古い建築物が多く残されていますが、なかでも紀伊山地の霊場と参詣道では、様々な信仰が混交されてきたことから、日本独自の神社・寺院建築が発展していく場所ともなりました。
神社と寺院の様式が合わさった、かつての神仏習合時の様式が感じられる建物が現在でも多く残されており、それらの建築様式はかつて信仰の伝播と共に日本各地へと広まっていったものです。
1,200年以上保たれてきた聖なる山林
(該当価値基準6:顕著な普遍的価値を有する出来事、思想、信仰、芸術的作品である)
紀伊山地の霊場と参詣道の特徴として、各地の霊場が紀伊山地の山や森といった自然を信仰に組み込み、発展してきたことがあげられます。それによって、紀伊山地各地の森林景観は1,200年以上に渡り、過度に開発が入ることなく、辛抱強い維持がなされてきました。
また、山と森を含む自然そのものが信仰対象であったことから、非常によく記録が残されていることも特徴です。
4.構成資産の分布とエリアごとの特徴
ここからは、各エリアの構成資産の特徴について説明していきます。紀伊山地の霊場は大きく3つのエリアに分けられます。
奈良県中南部の「吉野・大峯」、和歌山県南部の「熊野三山」、和歌山県北部の「高野山」があります。そして、それらの霊場は「参詣道」によって結ばれています。構成遺産の一覧は以下の通りで、合計で23存在します。
No. | エリア | 構成資産 |
1 | 吉野・大峯エリア | 吉野山 |
2 | 吉野・大峯エリア | 吉野水分神社 |
3 | 吉野・大峯エリア | 金峯神社 |
4 | 吉野・大峯エリア | 金峯山寺 |
5 | 吉野・大峯エリア | 吉水神社 |
6 | 吉野・大峯エリア | 大峯山寺 |
7 | 熊野三山エリア | 熊野本宮大社 |
8 | 熊野三山エリア | 熊野速玉大社 |
9 | 熊野三山エリア | 熊野那智大社 |
10 | 熊野三山エリア | 青岸渡寺 |
11 | 熊野三山エリア | 那智大滝 |
12 | 熊野三山エリア | 那智原始林 |
13 | 熊野三山エリア | 補陀落山寺 |
14 | 高野山エリア | 丹生都比売神社 |
15 | 高野山エリア | 金剛峯寺 |
16 | 高野山エリア | 慈尊院 |
17 | 高野山エリア | 丹生官省符神社 |
18 | 参詣道 | 熊野参詣道 中辺路 |
19 | 参詣道 | 熊野参詣道 大辺路 |
20 | 参詣道 | 熊野参詣道 小辺路 |
21 | 参詣道 | 熊野参詣道 伊勢路 |
22 | 参詣道 | 高野参詣道 |
23 | 参詣道 | 大峯奥駈道 |
吉野・大峯エリア
「吉野・大峯」エリアには6つの構成資産があります。その多くが修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)によって7世紀後半に開かれたとされています。なかでも金峯山寺(きんぷせんじ)と大峰山寺(おおみねさんじ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)は、重要な修行の場として信仰されてきました。
吉野地域は朝廷や時の権力者との関係性も深く、奈良時代の天武天皇や14世紀の南北朝時代に天皇が逃れてきた場所としても知られています。また、吉水神社(よしみずじんじゃ)では、豊臣秀吉が5,000人を招いて、盛大な花見を行なった場所として知られています。
明治時代に各地の修験道は大きなダメージを受けましたが、現在も吉野大峯地域は修験道の修行場として信仰を集めています。
熊野三山エリア
「熊野三山」エリアには7つの構成資産があります。平安時代末期から流行した熊野信仰の社寺が登録されています。
現在では熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の3つの神社を指して「熊野三山」と呼称することが一般的ですが、明治時代以前は神社と寺院の区別がなかったため、青岸渡寺(せいがんとじ)と補陀落山寺(ふだらくさんじ)は熊野那智大社の一部としてみなされていました。
熊野那智大社の付近にある那智大滝は滝そのものがご神体とされてきたほか、那智原始林では手つかずの貴重な自然に触れることができます。
高野山エリア
「高野山」エリアには4つの構成遺産が存在します。高野山は真言宗の開祖・空海が平安時代初期に開いた、金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心とした宗教都市です。
空海の死後も高野山はこの世に存在する仏様の国として多くの人々からの信仰を集めており、貴族や戦国武将などの有力者も多く帰依したために、日本仏教の聖地の一つとして繁栄してきました。
長らく修行の場所として女人禁制とされていたため、麓には女性が高野山参りをする慈尊院(じそんいん)が整備されたほか、空海を高野山へ導いた神として、丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の2社も崇敬されてきました。
参詣道
「参詣道」は、各地の霊場を結ぶ道そのものが世界遺産として登録されている特徴的なもので、6つが構成遺産に指定されています。
代表的なものに、紀伊半島の各地から熊野三山を目指す熊野参詣道があります。現在の和歌山県田辺市から、海岸沿いを結ぶ大辺路(おおへち)、山中を経由して熊野三山を目指す中辺路(なかへち)、高野山から伸びている小辺路(こへち)、伊勢神宮を起点とする伊勢路(いせじ)の4つのルートがあります。
また、世界遺産には指定されていないものの、大阪を起点に田辺市までを結ぶ紀伊路というルートもあります。このほか、麓の町から高野山の金剛峯寺を結んでいる高野参詣道と、道を歩くことそのものが修行とされている大峯奥駈道があります。
5.おわりにー観光をする上でのポイントー
それぞれのエリア毎に特色はありますが、紀伊山地の霊場は神道と仏教、山岳信仰と修験道の宗教観が入り混じる独特の世界観を持っています。あらかじめそれら全てを理解しておくのは容易ではありませんが、あらかじめ日本の宗教や精神性、自然崇拝について調べておくと、より楽しみながら世界遺産を楽しむことができます。
ブログ内では世界遺産の構成資産である『那智山 青岸渡寺』や『丹生都比売神社』についてまとめた記事も掲載されています。
また、合計で23ある構成遺産の特徴をより詳しくまとめた記事も掲載しておりますので、そちらもあわせて参照してください。
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